2050年には、日本の人口は1億を切る。現在生産年齢人口3人が高齢者(65歳以上)1人を支える姿を騎馬戦型と言うが、2055年には、1人が1人を支える肩車型になる。これは、どこにでも見かける文章である。もう聞き飽きて、馬鹿馬鹿しくもなる。
前述したが、人口推計は当たらない。平均寿命や合計特殊出生率が予想をはるかに超えて現在の少子高齢社会をもたらした。人口は、経済成長と停滞、疾病構造の変化、自然災害、家族観、移民政策など予測不可能な未来の推計だから、当たらないのは当たり前だ。
だから、むしろ、望ましい人口とは何かを考え、日本の国をどうしたいか、超マクロ的政策が必要なのだ。ただ、出生率と死亡率で人口推計をしていても、今の日本の数値から発する限り、人口減の活力ない社会しか導き出せないのは当然である。
若者の雇用を確実にし、若者に結婚と子育ての希望を持たせることが必要である。オランダのように、ワークシェアリングを実行し、正規・不正規に関わらず同一労働同一賃金にして若者の経済安定を図るのも一つのやり方だ。全体の給与水準を犠牲にしてもよいから、終身雇用を復活させるのも一つのやり方だ。
労働流動性の高い、つまり転職などの多い国が一概に労働生産性が高いとは言えない。アメリカのように今も移民が人口を支え、出生率も高い国では、次から次へと転職する労働流動性の高い市場でもよいのかもしれない。しかし、日本は同質で、定住を好み、身分重視の社会であり、良くも悪くも転職を続けるのは、社会的差別すら生みかねない。
アメリカのようにダイナミックに移民を引き受けるか。多分、否である。失業率が高い(少なくとも80年代までの3%以下に比べれば)中で、なおさら日本人の労働の場を失うという意見が多い。ただし、農業と介護の分野は人手不足で、研修生や一定の就労枠などで外国人労働者が使われている。
終身雇用は頑張る人には損で、怠け者は怠け放題になるという意見もある。しかし、どの社会もすべての人が100%の力を出し切るようにはできない。
徴兵されて軍隊に入って、突然国の目的のために働くことになった大日本帝国の男児は、働きが悪いとビンタを食らったが、それでも100%が力を出し切るのは無理だった。ビンタを食らわせた上官にフケ飯を食わせたり、膝を抱えて一晩中泣いていたり・・軍の仕事に合わない人間はたくさんいた。
社会は歩留まりを考えつつ、チームで発展を遂げていくことの方がいいのではないか。意見の衝突や足手まといで本来のエネルギーが削がれることはあっても、チーム、グループ、地域、日本へと発展を広げていくには総力戦で行くべきではないのか。
過去の成功物語に捉われるのは間違いかもしれないが、しかし、高度経済成長期と安定成長期を生きた団塊の世代としては、長い幸せの日々を若い人たちにも味あわせてやりたいと思ってやまない。我々より一昔前の世代は、植木等のスーダラ節に乗せられてサラリーマン無責任時代を築いたが、それは一種のパラドックスであって、責任を負ってサラリーマンをやっている人々の存在とそのおこぼれに預かる人々がともに豊かさを享受していることを知らしめているのである。
政治家とは、究極、日本人を信じ、日本を信じ、日本の国益を守り、国粋主義者になることである。日本のチームワークを信じて、給与水準とバーターでもよいからかつての終身雇用を復活させたい。終身雇用は、給与所得者がエリートだった戦前には少数のための制度であったし、また、最近のデフレ不況のためのリストラや就職氷河期には高嶺の花になりつつある。ところが、団塊の世代はほとんどがその庶民の幸せを与えられたのだ。
雇用が安定すれば、次は、家庭や子供に希望を持つようになる。団塊の世代も60年代、70年代のうるさいくらいの恋の歌に乗せられた。流行歌のほとんどが、愛だの恋だの、幸せだの別れだの、そういう類の内容だった。まるで、恋しなければいけないみたいで、その頃、恋愛結婚が見合い結婚を抜いていった。
歌に乗せられたかどうかは別としても、1973年には第2次ベビーブームが到来した。この年に生まれた人は既に40歳になるのだが、残念ながら第3次ベビーブームは作ってくれなかった。第2次ベビーブーマーの過去20年、つまり、就職、結婚、家庭づくりにあたる時期はまさにデフレ不況で、親の世代である我々団塊の世代に比べると、何をするにも苦労が必要だった。もっとも、苦労したくない人も多くいて、甘い団塊世代の親の下で、パラサイトシングルを謳歌し、今は親の年金の実質的な被扶養者になっている者もいるという。
「やる気のない奴は放っておけ」という意見がある。しかし、やる気とチャンスは正の相関関係がある。団塊世代が生きた時代は、チャンスがそこら中にあって、少しだけやる気を出せば、チャンスが近づいてきてくれたのだ。今、ありきたりの就職にありつくことも、ありきたりの異性との出会いも、難しいことになってしまったのだ。
だから、おせっかいかもしれないが、若者の人生を「市場原理」に任せてはいけない。チャンスを作るのが政治や社会の役割となったのである。先ずは雇用だが、上述の科学産業、労働集約的な医療、福祉、教育などの社会サービス、農業などにおける雇用について、若者を優先し、たとえ消費者の負担に跳ね返ってもより多くを雇うことを制度的に確保すべきである。雇用を昔に戻すとしても、産業構造は変えねばならない。物つくり中心から知的財産を駆使した産業へ、参入できる農業へ道を作るのが政治である。
そのために、若者の教育機会の平等をもう一度確たるものしなければならない。機会の平等は競争を否定するものではなく、また、結果の平等を保障するものでもない。その意味では、団塊の世代の時代は、制度がよくできていたと思う。公立の高校が私立よりも優れ、国立大学は授業料月千円だった。安くてよい教育が一生懸命勉強する者には与えられていた。
受験戦争という言葉は団塊の世代のために作られたが、それでも4年制大学進学率は20%台だったから、小中学校から進学塾に通う子供はいなかった。塾は、むしろ勉強の遅れた子供たちのための商売であった。受験技術に特化した中高一貫教育などを否定するつもりはないが、私立や家庭教師に金をかけなくても公教育だけで十分に教育が受けられるはずであり、その体制ができていればよい。
教育と直結する労働市場での機会は、日本は、アメリカとヨーロッパの間に位置している。つまり、アメリカでは、社会人になってから大学に入り直したり大学院に通ったりして、より専門的な職業に代わっていくことができるが、ヨーロッパでは、小学校卒業時の成績で高等教育に進んだり、早くからの職業教育に進んだりと、若年期に決められたコースを歩むことになり人生のやり直しが難しい。
イギリスでは、11歳で人生選択の試験があり、パブリックスクールに入れなければ、大学に進めずプロフェッショナルな職業には就けない。ドイツでは、小学校卒業時に、大学進学のためのギムナジウム、リアルシューレ(職業学校)、ハウプトシューレ(一般学校)に分かれ、特にハウプトシューレは落ちこぼれとみられることが多い。
日本は、最近では、工業高校、商業高校、農業高校などの職業高校が激減し、多くは普通科に進学するようになっている。日本人の多くは大学や専門学校で人生の選択に入る。しかし、就職が新卒中心の採用であるため、その後の人生のやり直しが困難を伴う。また、4年制大学が750以上もあってレベルはさまざま、大卒としての就職難はデフレ不況となってからは当たり前になっている。
アメリカのように労働流動性を前提とした教育の在り方がいいのか、人生の早い時期に、「身分」が固定してしまうヨーロッパの制度でいいのか。あるいは、教育から労働市場に直行しなければ不利になる日本の制度でいいのか。それぞれが背景の文化を背負っていると思われる。アメリカは自由社会、ヨーロッパは階層社会、日本はその中間である。
教育と職業は、日本は所得階層で概ね決まっていく傾向がある。親の所得階層が高く社会的に認められた職業である場合には、子供もまた学歴がよく社会的に認められた職業に就く傾向がある。ある意味では、ヨーロッパに近い階層社会になりつつあるかもしれない。
極端な例を考えると、政治家と医師は、世襲が多い。いずれもお金がかかるからである。優秀な子供であれば国立大学医学部で教育を受け、さほど金がかからないで医師になれるが、数が限られている。私大医学部はサラリーマン家庭では授業料が支払えない。政治家は、地盤、看板、鞄を親から引き継げば楽に当選できるが、ゼロから始める政治家志望は極めて難しい。
我々の住む社会は、自由主義、資本主義であるから、所得階層の高い者が子孫を医師にしたり政治家にしたりするのに対し、文句を言えない。日本はアジアの他国と比べればよほど近代化しているものの、アジアに蔓延する「ネポティズム」(親族・友人重視)も厳然として残っている。外務省、日銀、NHK,電通、読売新聞、日経新聞などは、明らかに政治家の子供や世襲の採用がある。これも各組織の意向だから文句は言えないようだ(表向きは、世襲はないと言うだろうが、現実にその人数が多いのだ)。
地域を回っていると、息子を市役所に入れてくれ、教員に採用してくれ、いくら出せばいいのか相場を教えてくれ、という頼みごとをされる。教員採用については、現実に数年前、大分県でコネ採用が行われていたことが明るみになった。工事の一般入札方式と同じで、入札方式でありながら談合めいたものが行われてしまう。
教育の機会を保障するならば、次には労働市場に入りやすい社会を作らねばならない。アメリカは労働力の流動性の高い国であるが、転職のための民間会社のサービスも徹底している。応募すべき会社、履歴書の書き方など懇切丁寧なサービスをしていると聞く。何せ、転職ならぬ転婚(離婚して再婚する)の場合の離婚学校もあるというくらいだから、何でもサービスに変えて売り物にしてしまうお国柄だ。日本も公的機関ハローワークがこのままでいいかどうか一考すべきだ。
以上のように、端的に言うと、若者には、教育の機会平等を公教育で実施すること、就職の機会の保障、そして、産業構造の変化を科学産業でもたらし雇用を増やすこと、それらが人口政策で子供を増やす、あるいは結果的に増えていくことに繋がるであろう。
人口政策は、子供を増やすことが第一であるが、70歳までの高齢者、主婦という女性の潜在労働力をもっと活かすことも人口減少から増加へのプロセスでは重要なことである。実質的に生産年齢人口を増やすことで、騎馬戦型だの肩車型だのと悲観するには及ばない。支えられるよりも支える人口を増やせば、人口増加に転ずる過程でも、経済社会の活力を取り戻せる。
科学産業、介護産業、農業は人手不足だ。アジアの拠点と結ぶ海外ネットワークも人手を必要としている。これらを活かし、若者はもとより潜在労働力である女性や高齢者の仕事に結び付けることが政治の仕事だ。
人口構造がピラミッド型であれば、社会保障は何も心配が要らない。支える人より支えられる人が相対的に多くなっている今日から脱するには、経済成長し、仕事のチャンスにあふれ、公教育で競争力を身に着けた若者たち、社会サービスの分野で子育て経験などを社会化する女性たち、まだ老後は早いと第二の人生を農業に勤しむ高齢者たち、こういう人々が活躍する日本をつくることである。
東京の西葛西にはICT産業のインド人が多く住む。高い技術を身に着けた外国人労働者の労働ビザや移民政策も人口構造を変える選択肢の一つであろう。日本の活力が失われたのは、今ある優秀な人材を外国人であるがゆえに拒否する体質があるからだ。このことも、女性、高齢者の活用の次に考慮していかねばなるまい。
日本は世界一の高齢社会で、これから急速に老いゆくアジアの高齢社会の制度やサービスの模範になっている。日本がアジアの高齢者サービスの展開に大きな役割を担っていると思う。その日本が人口構造を長年かけて変えることができたならば、これもまたアジアのモデルとなろう。
安倍政権に足りないのは人口政策と社会保障だ。何も発信していないどころか、無視している。金融政策促進をマーケットに語りかけて株価上昇、円安をもたらした。ここまでは、安倍政治への期待が応えたと言える。実体経済はこれからだ。成長戦略もまだできていない。経済の刺激は常套手段の公共事業。さて、お手並み拝見だが、その次にくるのが憲法改正、国防軍、戦前教育の復活では、若者、女性、高齢者は逡巡する。
戦前の産めよ増やせよ(兵隊になれ)、80−90年代の産む産まないは女性の権利と言っていた時代は去った。人口政策はもはやタブーではない、日本の未来のために実行しなければならない喫緊の政策なのである。