最近の新聞記事で、つくば市の研究機関に勤める人の約3分の1は、何らかの心の障害を抱えていると書かれていた。私は、驚かない。中央官庁も同じだったからだ。私が1996年、児童福祉法の改正を担当課長として従事した時、我が課からは4人もの精神病者を出してしまった。国を背負うという自負を持ちながらも、人々は仕事の方向や多忙や人間関係に心を苛む。
心を病むのはエリート集団も何も関係ないように思う。身の回りでもうつ病は風邪ひきよりも多くなっているような気がする。私自身も壁にぶつかっては、うつ病に近いものを感じている。病名を拒否して強がりを言っているだけの自分が常にある。特に1990年代は、デフレ不況の中で、予算編成の仕事でも、民営化を強要される社会保障制度の改革でも、明るい心で行えるものは見当たらなかった。
話は私事になるが、その頃より10年前の30歳代の私は、ユニセフのインド事務所に行きたくて、厚生省に無理を言って出向させてもらい、世界を股にかけた明るいイメージで仕事をしていた。ユニセフで3年働いた後、ユニセフに残るか厚生省に帰るかで悩んだ末帰ってきたが、厚生行政よりもっと広いところで活動したいという気持ちにいつもとらわれていた。
具体的には、政治に出たい、との気持ちが強くなっていた。日々会う世襲大臣の知識の低さやユーモアも何もない乾いた人柄を見つつ、「私でも、これよりはましにできるのではないか」と思って憚らなかった。しかし、当時は、「地盤、看板、鞄」がなければ選挙に出ることはできないというのが一般の常識であった。
地盤、鞄がなくても、何かで有名になれば看板は作れる。タレント議員が誕生するのは、ひとえに看板の大きさである。私も、意識して本を書き、黒子である官僚から、多少は名の知れた人になろうと試みた。私の出した単行本は、インドでの体験や、戦後のアメリカ志向や、女性の生き方などを読み物として発行に漕ぎ着けたが、いずれも売れずじまいであった。
1995年、看板になるかもしれないチャンスが巡ってきた。横山ノックさんが大阪知事になった時に、私に副知事をやらないかと声をかけた。私は、千載一遇のチャンスと思ったが、厚生省は、大阪府議会はノック反対派で占められ、そもそもノック氏自体がまともな知事になりえないという見方で乗り気ではなかった。私は禿げ頭をぺこりと下げたノック氏に承諾の返事をしたが、府議会で副知事人事が否決されるという珍事に見舞われた。
ノックさんに対する否決であってあなた自身の否決ではないと慰められもしたが、私は、すぐさま立ち直って、ならば、厚生省で本気になって社会保障改革に取り組もうと心に決めた。政治に出るのは、少なくとも、一人息子が大学に入ってからでいいから、時間はまだ十分にあると思い直した。
だが、もう一度、チャンスが巡ってきた。今度は山口県副知事である。私は、迷うことなく赴任を決めた。もしかしたら、これは私の不幸の始まりかもしれない。自らの非才を省みず、野心の塊のような自分に、良くも悪くも暗雲が垂れ込めてきたのを気づかなかった。新天地での仕事に思いを馳せ、自分が受け入れられるものだと信じてやまなかった。
山口県副知事を無事務めた私は、これで「看板ができた」と思った。地盤も知名度がある山口にある程度できた・・・と思ったのは実は大間違いだった。早とちりの私は、退任後、厚生省にも辞表を出して、山口の地で選挙に出ようと思い立った。否、思い立ったというよりは、そうしようと思って人生を計画してきたのだ。のちに、篠原孝(民主党議員 長野)氏が来県した折に、「絶対に当選しない地を選ぶなんて、どういう神経か」と言われたことがある。事後、後悔の念に付きまとわれた。
早く言えば、私は、選挙とは何かを実体的に知らなかったのである。にもかかわらず、極めて楽観的だった。当時、自民党の評判は下降線を辿り、小泉純一郎で急上昇したものの、それは「自民党をぶっ壊す」というパラドックスを利用した人気にすぎない。人気の落ちた自民党の自虐的な発信が受けたのである。それは小泉の人柄によるもので、消え入る前の線香花火のようなものだったはずだ。自民党の命運は尽きていたと言っても過言ではない。私はそう思っていた。
しかし、都市部や全国傾向としてはいざ知らず、山口県のような自分の殻の強い土地柄では、殻そのものが自民党で出来上がっていて、一般論が通る世界ではなかった。そんなことも知らず、無謀な選挙に出た私の無知を今も恥じる。
それでも、全国的に民主党は上昇を続け、政策論争での選挙ができそうな状況が醸し出されていった。「地盤、看板、鞄」の選挙から、どうやって、国の無駄遣いをなくし、天下り天国をなくし、医療現場や年金などの社会保障を立て直すかについて、民主党は与党に対峙し、マニフェストを作っていった。
ついに、2009年の選挙で戦後初めての政策論争での選挙が行われた。マニフェスト選挙と呼んでもよいだろう。マニフェストは、サッチャー夫人が政権交代を成し遂げるときに使った手段であり、日本でも30年遅れで政権交代の最大の武器になったのである。
私は居住地茨城県に選挙区を変えての選挙だったため、知名度がなく、ハンディは大きいと思ったが、人々は民主党のマニフェストを次々に取りに来た。3年後の今回の選挙では、「民主党のマニフェストだけは要らない」と言われたのとは真逆だ。
人々は、マニフェストに期待をかけた。デフレ不況からの脱却、就職難、社会保障の不安にマニフェストは答えたのである。民主党は明確な綱領を掲げていないが、社民・共産ほど左翼ではなく、穏健リベラルで、政権を取らしてもいい、ましてマニフェストが日本の立て直しを実現できるならば・・・と多くの人は考えた。
言わずもがなだが、民主党は鳩山総理辞任以降、そのマニフェストをかなぐり捨てた。人々の期待はマニフェストにあったのを知らなかったのか。これほど愚かなリーダーはあるまい。人々からうそつきと言われ、期待外れと言われ、政権担う資格なしと言われても、その声はリーダーに届かなかった。
決定打は、もちろん、野田の消費税導入である。マニフェストでは、「任期中に消費税は引き上げない」としていた。2014年の引き上げは任期中でないからマニフェスト違反ではないというのは詭弁だ。任期中に、「消費税引き上げが最大の課題」とぶち上げたのは、無駄遣いの見直しや行政刷新で努力して財政悪化を食い止めるとしたマニフェストの方針と相反するのだ。
しかも、無駄遣いの見直しや行政刷新で成果を挙げていないではないか。この議論は、社会保障と税の一体改革の中でも反対論の核として何度も行われた。それに対して、有効な反論はついぞ聞かれなかった。反論できまい。ならば、なぜそんなにまでして消費税引き上げにこだわったのか。
既述のとおり、小沢さんの作ったマニフェストをつぶすこと、財務省に「歴史に残る仕事はこれです」と言われたことがこだわりの原因である。そこに、国民への意識はなく、永田町の論理だけで、即ち、コップの中の嵐で決定されたということだ。
このことは、民主党の凋落だけでは終わらないということを為政者は知るべきである。マニフェストが嘘の塊となった以上、人々はもう政策論争の選挙を信じなくなったことの方が後世に与える影響は大きい。今回の総選挙は、再び「地盤、看板、鞄」の選挙に戻してしまったのだ。もう政策論争は要らない、もとのままでいいよ、ということになった。
私は、今回の選挙のマニフェストづくりを笑止千万とみていた。一体、幹部は人々の総意に気づかないのだろうか。マニフェストを作ること自体が「また嘘で固めようとしている」との誹りを受けていたのだ。案の定、選挙期間中、マニフェストはまったく誰も持っていかなかった。こちらから届けると、支援者からも「マニフェストは持って帰ってください」とまで言われた。民主党がマニフェストの名を借りて詐欺を働いたと思う人々の当然の感情である。
この結果から、今回の選挙は、有権者がマニフェストを基準にすることなく、新勢力に期待の一票を投じたか、あるいは自民党を消極的に選択した。今回の選挙からは、政策を高らかに掲げる「詐欺師」ではなく、地に足の着いた、多少頭は悪くても嘘のない人の方がいいという選択に陥るのも目に見えている。
民主党の罪の中で、このことは、もしかしたら、一番大きいかもしれない。もう一度政策論争の選挙をやろうとしても、後遺症が10年は続くのではないか。政策政党としての民主党は永遠に認められず、ほかの政党もそのあおりを受けて、政策論争そのものが否定され、日本独特のしがらみ選挙へと時代は後戻りしたのである。
その意味で、民主党自身が立ち直るのはなかなか難しい。むしろ、民主党の中で実務派が離れて、新たな理念をもって政策論争に挑む方が受け入れられやすい。極右維新党と最右翼安倍自民党にバランスをとる新たな勢力は、今のままの民主党では無理だ。民主党は、贖罪ができていないので国民に許してもらえないと思う。