元衆議院議員(茨城県第6区)[無所属]大泉ひろ子オフィシャルサイト -大泉ひろこの徒然草(つれづれぐさ)-
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日々雑感
[2022/09/01]
解決は議院内閣制を廃止すること



 岸田総理に逆風が吹いている。自身もコロナ予後の青息吐息の中で「自民党と統一教会の関係を断ち切る」決意を述べた。しかし、大方の見方は「努力義務だろう、実効は上がるまい」だ。
 自民党は、創価学会のみならず宗教の力を借りなければ選挙ができないほど力が落ちている。世襲の坊ちゃん、なりたがり屋の坊ちゃんを押し上げてくれるのは、能力をあえて問わない宗教人しかいないのだ。
 自民党の議員は政府のトップになりたくて選挙に出る。正確にはトップの椅子に座って世の中を睥睨したいだけだ。片や野党は歳費が欲しくて選挙に出る。今や政権交代など絶望だと分かっていても、能力を問わない格好の就職口として選ぶ。
 根本的解決は、議院内閣制をなくすことにある。専門知識も現場経験も持たぬ議員が年数を経れば大臣になれる議院内閣制が諸悪の根源だ。腐敗をもたらす制度である。
 三権分立と言いながらも、その実は際立って行政府の権力が大きい。国会は国権の最高機関と憲法には書いてあるが、その最高機関にたどり着いた議員の目標は行政府の長になることだ。おかしいではないか。しかも、椅子に座って、官僚に書いてもらった答弁を読み、椅子は選挙に有利な道具の役割でしかない。本末転倒も甚だしい。
 岸田総理が本気で憲法改正をやるなら、9条改正の前に、議院内閣制を廃し、大統領制に変えるべきである。行政府の長である大統領は国民が選び、政党は問わない。各政党は政策論議を交わし、自党の推薦する大統領を候補にすればいいのだ。無論、政党の支援が無くても立候補ができる。アメリカのように1年にわたる国民的議論の中で、スーパーな人物を大統領に選べばよい。
 議院内閣制は無能隠しの制度であり、大統領制はあからさまに能力が問われる制度である。そして、大統領はその道の専門家を閣僚に任命すればいいのである。アメリカのように、財務長官はトップ経済学者のイェレン、国防長官は陸軍大将のオースティン、国務大臣は外交官ブリンケンと、その道のプロばかりだ。
 一方、議員は、大統領制の下では自ら法律を立法しなければならない。議院内閣制の下、官僚が作る内閣提出法案がなくなり、本来の役目に戻るのである。一人一人の能力が問われ、官僚をうまく使いこなせるかもその能力のひとつになる。官僚は、新大臣が就任すると「バカが来た」「今度のは少しマシだ」とあからさまなコメントをしているのが現実だが、立法力のある議員には支援を惜しまないであろう。霞が関劣化の処方箋にもなる。
 岸田総理よ、安倍氏の国葬をやって150年の長州足軽政治にピリオドを打つことができるか。吉田松陰を松陰神社に祭ったように、安倍神社まで作るとよい。しかし、自民党の立て直しは無理だ。議院内閣制の廃止で、150年の芥(あくた)を捨て去り、危機の日本を救うカリスマ登場が望める大統領制に移行すべきである。



 

[2022/08/11]
自民党の運命は鎌倉殿



 久しぶりに見る大河ドラマである。鎌倉殿13人は、脚本家三谷幸喜氏の才能躍如により、現代政治につながる面白さを伝える。
 頼家と実朝は源頼朝嫡出の長男・次男である。二人ともいわば現代流の世襲政治家である。18歳で武士の棟梁鎌倉殿に就いた頼家は、父の壮絶な人生を真似ようにも経験不足な上、周囲をないがしろにして、終局は外戚北条氏によって暗殺される。
 次男実朝は12歳で鎌倉殿になり、政治は任されず、歌に耽る。名歌を遺したものの、甥の公暁に暗殺される。源氏の支配は三代で終わり、北条の執権政治が続く。これを現代に当てはめれば、世襲政治家が政府を追われるドラマである。
 頼家は安倍晋三である。岸信介が子々孫々のために築いた政治家業と巨大な政治資金を受け継いだ安倍はひたすら岸の遺言を実行しようと努めた。しかし、頭脳明晰かつ満州の妖怪と言われた策士である祖父に遠く及ばず、凶弾に倒れた。
 実朝は岸田文雄である。三代続く世襲政治家であり、宮澤喜一の甥である彼は、ジェントルマンである。歌を詠むほどの文化人ではないが、安倍よりはいささか勉強している。安倍暗殺事件に恐れおののいたか、国葬を決め、内閣改造でも安倍派への配慮を明確に示した。
 退屈極まりない派閥均衡新内閣の上に、新しい資本主義のキーワードのかけらもない施政ぶりで、岸田政権は支持率を落としている。政策集団であった岸田率いる宏池会は死に絶えたようである。ウクライナ戦争後の、コロナ後の日本をどうするのか不明であり、いつどこから公暁なる刺客が現れてもおかしくはない。
 世界はインフレと気候変動への対処を迫られ、核戦争への恐怖をあおられている。頼家・実朝が如き世襲政治家の器量で乗り切れる状況ではあるまい。今年は、世襲政治の終わりの始まりを示唆する年である。同時に、世襲政治を産んできた長州足軽政治の終焉でもある。
 しかし、野党に期待はできない。野党は御家人株を買いたがる農民でしかない。武士の華々しさに憧れ、万年野党で高額所得さえ維持できれば良しとする輩ばかりなのだ。自民党よ、今こそ世襲を排除し、150年続く長州足軽政治から脱却し、真実の保守を学べ。自害した西部邁の本でも読むがいい。
 筆者の勝手な解釈だが、脚本家三谷幸喜はそのメッセージを伝えているように思える。
 

[2022/07/19]
山上徹也容疑者は日本の安重根となるか



 安倍元首相が凶弾に倒れ死亡した事件は日本を震撼させた。あな、恐ろしや、2022年はウクライナ侵攻にとどまらず前代未聞の大事件が又してももたらされる年となった。あたかもコロナ騒ぎで先送りされた気候変動問題が沸騰したかのような情勢である。
 それにしてもマスコミの対応はウクライナ侵攻と同様、金太郎飴であった。ウクライナ侵攻は、今になってようやく単なる「ロシアは悪、ウクライナは善」の構図を打ち破る報道が少しづつ出てきたが、政治家は今もって「気の狂ったプーチンの仕業」と言ってやまない。地政学も歴史も学ばない世襲政治家と自称左翼の烏合の衆だからだ。
 山上容疑者に対しても、プーチンと同じく、宗教への恨みを安倍首相に向けた「気の狂った行動」と最初から位置付けてやまない。しかし、父と兄を自殺で失い貧困に喘いだ当容疑者の情報が少しづつ明らかになってくるとSNS上で若者の同情は集まった。しかも、本人は小児がんで失明した兄や妹に金をもたらそうと保険金をかけて自殺未遂までした状況に追い込まれた人なのである。
 彼はマスコミの言う「狂った人」ではない。報道されている彼の手紙によれば、宗教への恨みを安倍首相に向けたのは社会への影響力の大きさを考えた上であった。もともと頭がよく、論理的に考え、兄妹や、本来ならば一番責められるべき母親への情も厚い人間であったことが明らかになった。抵抗せず、淡々と逮捕されている彼の様子を見ると「仕事をやった」という姿であった。
 この姿は、1909年10月、ハルピン駅で前韓国統監の伊藤博文を銃殺した安重根に重なって見える。安は、今でも、筆者が訪れた釜山の韓国料理店で英雄として崇められた写真や書が飾られているように、一部の韓国人にとっては韓国独立の英雄である。皮肉なことに、翌年処刑され、その年に日韓併合が成立することになった。
 安は両班(支配階級)の出身で、キリスト教の洗礼を受け、受刑中に日本人のファンができるほどの人徳者だった。天皇を尊敬し、そのしもべであるはずの伊藤博文の施政が間違っていると言うスタンスをとった。山上容疑者も、もともとは父は京大工学部卒の豊かな家庭の出身であったが、母の宗教への献金が一家を窮地に陥れた。彼は、むしろ安倍政治に賛意を示していた考えの持ち主であった。したがって、安と山上の二人はよく似ている。
 これが左翼の犯罪であったなら、マスコミは「狂った人扱い」を止めたであろう。漫画程度の理屈で理解されやすいからだ。しかし、深読みすれば、経済的に転落すれば一挙に教育もままならず、自殺も選択肢に入り、生きづらい世の中の立て直しにテロという手段をとるまでに至ってしまったと言える。宗教の責任の背後には政治の責任もあることは否めない。
 岸信介は笹川良一、児玉誉士夫、文鮮明などと反共思想を通じて親しかった。インドネシア賠償についてもデビ夫人を動かして人脈を得たと言われるが、これらの人々と岸の膨大な資産との関連は処々で書かれている。すると、岸の孫であり岸の継承者を自認していた安倍元首相は山上容疑者の標的になってもおかしくはない。無論、許されざる暴挙ではある。
 生きづらい世の中を創った政治、転落の無い数世代に渡る資産を作り続けた世襲の政治家は、少なくとも80年代までの一億総中産階級から転落した多くの日本人にとって「敵」であることを、この機会に永田町で認識すべきである。
 蛇足だが、安重根の死刑執行に当たった関東郡督府の都督は奇しくも安倍晋三の高祖父である。
 
 
 
 

[2022/06/22]
量から質へ―教育と社会政策



 参院選は国政評価の機会を提供する。これに合わせて岸田内閣の経済政策である「新しい資本主義」と「骨太」が公表された。前者は中長期計画、後者は予算編成方針だが、一般の評価はそこそこである。
 今回は防衛費と物価高が争点になりそうだが、そもそも経済政策はこの30年、つまりバブル崩壊後失敗続きであり、誰も政府の方針を明るく受け止めてはいない。小渕首相の財政出動も、小泉首相の規制緩和も、安倍首相の金融緩和も、結果的には日本経済の復活につながらず、日本は、借金まみれで、消費意欲の低い「貧しい国」に甘んじている。
 経済政策ばかり前面に出ているが、労働力を作る教育や、消費意欲に関わる社会保障・社会政策は、経済政策に内包された責任を持つ分野である。
 教育は、明治以来の義務教育、昨今の高等教育において量的な問題は終っている。日本社会にとって求められる教育の質が問題であり、その質の議論はゆとり教育を始めダッチロールを続け、労働生産性向上につながる結果にならない。また、社会保障・社会政策は今だに量の問題、即ち財政論が中心であり、質の問題にまで到達できない。
 最近、栗原慎二広島大大学院教授のお話で、いじめや不登校など問題を抱える学校の解決に導くケースメソッドを学んだ。岡山県総社市、宮城県石巻市で行われた子供自身の解決能力を使った試みである。生徒、地域、教科以外のプロフェッショナルが参加して自ら解決方法を考え実践する。栗原教授はこの方法をイギリスなどの実践から学んで確立し、見事に成功した。
 筆者の理解では、これは、教師や教育委員会が上に立って解決する「企業のようなやり方」ではなく、いわばゲマインシャフト(情緒的な共同体)を作って、共同体が問題児をそのメンバーとして扱うことにより、健全な日常を取り戻す方法だ。確かに、これまで、企業のようなやり方、即ちゲゼルシャフト的な方法では解決できなかったのであるが、上下関係ではない信頼関係を築くことにより解決に導いたのはうなずける。
 栗原教授によれば、日本の教員は優秀だが、それは教科を教える上で優秀なのであり、学業が優秀であると言うに過ぎない。問題行動に対しては、上から下に教えるのではなく、見守る姿勢が必要である。それができない。ゲゼルシャフトは集団利益を得るための共同体だが、ゲマインシャフトは非合理性はあるものの個人の利益を守る共同体である。
 質の議論に程遠い社会政策の分野においても、民間主導で「ゲマインシャフトづくり」が行われている場合もある。筆者が最近見学した薬物乱用者の民間更生施設では、まさに、治療者が被治療者を治す上下関係をなくし、被治療者同士の交流やマッサージや健康食を口にしながら、穏やかな日々を重ね、当たり前の日常に戻っていく方法をとっている。幸い、費用は企業の社長がすべて寄付しているとのことである。
 これもゲマインシャフトづくりに他ならない。筆者は東京生まれ東京育ちでゲマインシャフトの経験はない。しかし、日本人の圧倒的多数は、地方から都会に出てきた経験者であり、青年に至るまでにゲマインシャフトの経験がある。ゲマインシャフトは一方ではうるさい田舎のしがらみであり、長老の独断的な関りであるかもしれないが、他方で、だれ一人取り残さない包摂社会であることも事実だ。
 都会に出てきて合理的なゲゼルシャフトで心を病み、果てはひきこもり、薬物乱用など非社会的・反社会的行動に至った人々の心を癒すのは、ゲマインシャフト的な集団に置くことだと思われる。
 さて。話は少々飛躍するかもしれないが、経済政策の基礎である消費構造を変えるには、ゲマインシャフトの集団作りが効果あるかもしれない。社会に不安があるために貯金するしかない日本人の行動を劇的に変えるには、その発想が必要である。

[2022/06/11]
一億総「病名あり」の時代



 2021年、世界で初めて、内閣府に孤独・孤立対策担当大臣が設けられた。「政府は孤独死など放っておきませんよ」とのメッセージを発したわけだが、「これって、結婚しろ、子供を産め、というメッセージと同じくらい私的領域に踏み込んでいないか」という見方もある。
 バイデンが大統領選に使った「多様性」のキーワードは、同質社会の日本でも、従来、徐々に取り入れられてきた。教育現場で難しい子供に発達障害や学習障害の病名がつけられ、特殊学級など対策が講じられてきた。発達障害の一つアスペルガー症候群は、少なくとも団塊世代の筆者の世代には聞いたことのない病名だった。病名ができて対処ができて、病名付きの子供が増えた。
 大人の世界でも、かつては、モラトリアム人間、アダルトチルドレンなどと著作が時流に乗っただけだったが、今では、たくさんの精神疾患の名称ができて、「誰もが精神病」になって、スティグマ(汚名)が解消されている。
 LGBTQについては言うに及ばず、原因を研究するよりも、そうなのだから仕方がない、それを社会が受け入れないのが間違っているとして対策が先行している。
 以上は、生物的要因による「障害」なのだから、抵抗できないし、対策を練るのは是とすべきであろう。しかし、孤立・孤独や、未婚率の上昇、子供を産んで後悔(博報堂調査で女性の4割)などは、社会が原因をつくっているので、その現象だけをとらえて減らそうとする対処方法は間違っている。生物的要因と違って、原因をなくすことが真の対策であろう。
 石田光規早大教授によれば、70年代は老人の孤独、90年代は被災者の孤独が社会問題になったが、2000年以降は全ての人の孤独に敷衍した。特にコロナで外出が制限され自宅に逼塞していれば孤独者が増加したことは言を俟たない。
 政府は、外出自粛や飲食店閉鎖が大量の孤独群を作り出してきたことを反省すべきであり、子育て支援を保育所増設だけで切り抜けようとする対策も反省すべきである。非正規雇用の社会が後戻りできないのであれば、結婚適齢期の若者に住宅や結婚費用の援助をすべきである。原因を潰さなければ現象は治まらない。
 老人の孤独にはタダで行ける公共施設をつくること、育児不安にはシルバー人材の女性を活用すること、病名のつく新時代の疾患には対応する窓口を置くこと、国や自治体ができるのは問題の原因を取り除く努力、そこまでだ。それでも、孤立し、社会に適用できない場合があったとしても、人の心にまで入る対策はあり得ないだろう。
 
 
 

[2022/05/10]
日本の財産を守る



 日本の2%に迫る物価上昇は、言うまでもなくロシア侵攻が引き起こしたエネルギー価格、穀物価格の上昇が連鎖した現象であり、日銀は「決していいインフレではないが、金融緩和政策は継続する」と明言している。ピークアウトに向かうコロナの政策から経済回復政策に舵を切った岸田政権は成功するか。
 現在、税収は上がり、円安状況の中で輸出産業に力点を置けば「日本回復」は望めないわけではないとの議論も出ている。元祖宏池会の池田勇人を信奉する岸田総理としては喜ぶべきなのかもしれない。
 だが、いかんせん、ウクライナ危機の長期化とインフレの進行は国民の生活を圧迫する要素であり、安閑としていられないはずである。この時点で、日本の財産とは何か、守るべきものは何かを点検する必要がある。ウクライナ危機については、単一民族かつ島国の日本が、錯綜したロシアやウクライナの歴史や民族感情を分かるはずはなく、隣接した欧州の思いや、アメリカの真の意図も計り知れない。
 日本は西側諸国の一員として、アメリカに追随し、軍事以外のロシア制裁に加担するのは良しとするしかあるまい。日本はそういう立場なのだから。しかし、改めて、日本が戦後77年間、西側に置かれてきた立場で手にした「財産」をこの機会に一つ一つ見直してみたい。
 先ず憲法。今年の憲法記念日は何事もなく過ぎたが、2015年の安保法制の議論で、既に憲法どうあるべきは決着がついたのであろうか。確かに安倍元首相のいつもの舌足らず癖は目立ったが、憲法学者が徒に難しくした集団安全保障は確認されたのであり、これは憲法制定当時の国連憲章などを参照し、法律というよりも政治的に内包された制度として受け止めざるを得ない。
 日本の輸入品財産の中、憲法は良質な輸入品であり、自力では作れない代物だったから、少なくも基本は大切にすべきである。他の輸入品である、民主主義はどうか。国際社会においては、立派に日本に根付いた価値と公言できるが、日本国内ではかなり変形されている。世襲政治がまかり通り、民主主議の方法論を利用した貴族政治に堕しているところは、不良な輸入品である。フィリピンでマルコスの息子が大統領になるのと変わらぬネポティズム(血族主義)が政治と政治の息がかかった大組織に厳然と存在している。
 同様に、輸入されたジェンダー論も一度も勢いづいたことがない。民主主義と同様に、上から与えられたウーマンリブを押し頂いた日本は、ジェンダーギャップ世界120位と先進国では考えられない位置にある。日本の女性はそもそも欧米の、あるいは開発途上国の女性の活躍を少しも羨ましいと思っていないのか。もともと自ら求めもせず、与えられたから、政府主導のジェンダーギャップ政策に乗ってきただけなのか。これも不良な輸入品である。LGBTQも然りである。日本の草の根から発した価値でないものは、大成しない。
 社会保障制度はドイツの社会保険制度を真似て発展してきたが、これは胸を張れる日本の財産だ。問題は、子供の保障はこれでいいかとの観点だ。大伴家持に言わしめた「勝れる宝、子にしかめやも」は、古来、日本が子供を大切にしてきた財産であることを語っている。その財産を産もうとしない民族になってしまったのは、政策の悪さが響いている。
 ウクライナ危機、知床の観光船事故、虐待で、最も心痛むのは、子供の死である。乳幼児死亡率が世界的に下がり、医療は高齢者をいかに長生きさせるかに軸足を置いているが、究極の政府の役割は、国民の夭折をなくすことである。だから戦争も、事故も、乳幼児への犯罪も避けねばならない。
 輸入品でない日本の財産の第一は、子供である。財産を増やすべく、人口政策に取り組み、かつ、輸入品の価値については、日本流に変えていく努力を必要としている。
 

[2022/04/07]
量より質を求めよ、保育所対策



 高齢化社会、高齢社会、超高齢社会とは、高齢者が総人口に占める割合が夫々人口の7%、14%、21%を占める社会と定義される。定義は明快で、日本は、高齢社会に達した1995年頃から介護保険法に取り組み、少数者のための福祉制度から、すべての高齢者を対象とした契約ビジネスへと政策転換したのである。
 これに対して、少子化は、1989年の1.57ショック(合計特殊出生率)を機会に、当時女性の権利が強化されていたため、人口政策の言葉を忌避し代替として作り出され、定義は明確ではない。ただ明らかに、出生率向上を狙った政策として始まった。しかし、高齢者に比べると、介護保険に相当するような新たな枠組みはおろか、政策目的にかなう状況は全く生み出されてこなかった。
 その元凶は、政府が予算を付けた最初の少子化対策が1994年のエンゼルプランであり、保育所の整備が中心だったからである。以降、少子化対策と言えば保育所の整備と短絡し、21世紀には待機児童ゼロが政府の掛け声となって、首長の公約は保育所の整備に集中した。
 現在、コロナ禍とウクライナ侵攻がニュースの殆どを占め、忘れられているが、一時期は「保育所落ちた、日本死ね」の言葉が踊り、保育所の量的拡大が最優先とすら捉えられたこともあった。
 その結果、大都市圏では、首長が社会福祉法人の保育所整備に必要な設置者負担を支出したり、保育士の加給をするなどして大規模保育所が増設された。立派な建築の保育所、高給求めて転職してきた保育士が観られるようになり、90年代に厚生省児童家庭局で児童福祉に携わった身には、隔世の感がある。
 ところが、この現状に対して、元埼玉県教育委員会委員長である松井和氏が「ママがいい!」という著書の中で現今の政策に噛みついた。保育所一辺倒の子供政策では、当事者である子供自身の利益が阻害されているとの趣旨だ。かつての筆者であれば、この題だけ見て反発を感じたかもしれない。なぜなら、根拠のない三歳児神話によって保育行政は滞っていたからである。
 しかし、松居氏の論調は三歳児神話に戻れと言うような安直なものではない。保育の現状は、女性に子育てよりも労働の価値が高いことを教え、首長が保育所整備を「やってる感のある」少子化対策の中心ととらえ、保育所整備が少子化という名の免罪符となっていることに反撃しているのである。そこには、子供を育てる親の責任も、もっぱら子育て産業化した現場の職業意識も、子供への配慮も感じられないと言うのだ。
 その通りではないか。筆者は、児童家庭局の課長時代、保育所の整備は必要不可欠と考えていたが、あくまで親が育児の第一次責任者であり、長すぎる預け時間や欠員補充をやりつつ常に保育士が変わる状況は好ましくないと考えていた。集団保育に丸投げするのではなく、工夫をこらし金銭を使ってでも、自宅での保育を充実させる努力をしなければ、子供は保育産業の工業製品になるだけだ。
 すでに、義務教育の現場ではモンスターペアレンツが跋扈していて教師を悩ましているが、保育所でも保育士泣かせのモンスターペアレンツが多くなってきている。それは、自分が親として育児の第一次責任者であることを忘れているからである。補完的にお世話になる保育士に任せきりで感謝の気持ちが伝えられない親も多い。少子化の御旗の下、預けるのは母親の権利と思い違いしているのだろう。
 松居氏の優れた指摘に共感してやまないが、蓋し、保育所が子供の利益に反すると言うよりは、親に問題があり、通り一遍の保育行政を行っている首長も、さらには政策立案者にも問題があると考える。今となっては、少子化対策イコール人口対策は忘れられているけれども、少ない子供の社会で、兄弟姉妹、近所の遊び相手もいないのだから、保育所は必要な施設である。少子化(=人口政策)には役立たないが、少子社会の重要な要素であることは間違いない。
 ならば、保育所の大量整備から質的向上の時代に移ったと考えるべきだ。人口政策を離れ、本来の意味での保育所、つまり子供の発育に不可欠な保育の質を追求しなければならない。望むらくは古くから地元で社会事業を行ってきた設置主体の小規模保育所を増やし、寄り合い所帯で産業化した大規模保育所にだけ委ねる行政を止めるべきである。児童養護もかつての大舎制からグループホームへと変わってきたことを認識し、児童福祉の先達に学べ。子供の利益には密接な親しい小規模保育の場を作ってやることだ。同時に、親、親たるべしを社会として教えねばなるまい。

[2022/03/27]
幸福とは何か



 ロシアの侵攻により安寧の生活を追われたウクライナ人にとって、今は、日々の何気ない幸福の日々を取り戻すのに必死であろう。そんな中で、去る3月20日は国連の定めた国際幸福の日であったが、幸福のテーマで語る余裕は世界にない。それこそ足掛け3年居座る新型コロナすらも吹き飛ばす悪魔が忍び寄る日々だ。
 しかし、筆者は先月、関西で国際幸福の日を題に講演する機会を得たので、72歳にしてたどり着いた幸福の概念について述べることをご容赦いただきたい。2011年、ブータンのチンプーで行われた国連の会議に基づいて、翌年、国連総会全会一致で国際幸福の日の決議が採択された。2012年から国連関連団体により、毎年、幸福度ランキングが発表されている。
 日本は2021年度のランクが56位であり、先進国の中で低い。1位はフィンランドで、トップには北欧諸国が続き、13位ドイツ、17位イギリス、19位アメリカと主な先進国が続く。下の方はアフリカ諸国が並び、最下位の149位がアフガニスタンである。
 ランキングのための基準は、各国の幸福意識調査と客観的な数値から成り立つ。客観的数値とは、一人当たりGDP、社会保障制度、健康寿命、人生の自由度、他者への寛容さ、国への信頼度の6つである。言うまでもなく、日本は、社会保障制度や健康寿命の配点が高いのだが、人生の自由度と他者への寛容さで低く、全体として低いランクに甘んじている。また、2000年には世界2位だった一人当たりGDPは今や24位と決して高くはない。
 幸福の日のきっかけを作ったブータンは、2013年ではランキング8位で開発途上国として突出した地位にあったが、その後ランクを下げ続け、95位の後は調査対象から外れた。ブータンは日本でも一時「世界一幸せな国」とマスコミが取り上げたが、多くの人が観光に訪れるようになって、国民は経済も近代化も遅れている自国を認識するようになり、主観的な幸福意識が急落したせいだと言われている。国連のランキングに使われる主観的な意識調査はいかようにでも変わりうることの証左である。
 ならば、もっと客観的な幸福の基準はないのか。世界三大幸福論と言われるのは、英国の数学者バートランド・ラッセル、スイスの法学者カール・ヒルティ、フランスの哲学者アランの幸福哲学である。しかし、これらの高尚な幸福論は、日常的な幸福を求める庶民には必ずしも説得力がない。例えば、ラッセルの自由こそ幸福の最大の要素という議論は、戦禍に追われるウクライナ人にとって真実であろうが、極限状態にない多くの日本人には聞き流されてしまう。
 筆者は平均的な日本人の幸福の要素を考えてみた。3つある。一つは、情緒的な満足。これは主観そのものだが、日本人として共有する情緒があり、日々変わる意識調査とは異なる。二つ目は、経済社会的に恵まれること。三つめは、成功の数、失敗の数からくる満足。二つ目三つ目は論に及ばないと思われるので、以下に情緒について述べる。
 情緒は、子供の頃家庭で育まれる。中でも童話は幼児の心に生き方の種をまく。世界三大童話の中、イソップはギリシア民話をベースに、アリとキリギリスのように動物を使った教訓が多い(現代の子供はアリよりキリギリスの方が好きだ)。グリムはシンデレラなど、実は実母の虐待や育児放棄の欧州民話から来ているのだが、幼児用に実母を継母に替え、苦労の末にハピーエンドとなることを教示。アンデルセンは彼の創作で、裸の王様や醜いアヒルなど皮肉を含んだ教訓をもたらす。
 これらの教訓は繰り返し幼児の心に入っていく。ただし、三大童話では涙は出ない。心から感動し涙が出るのは、子供に読まれるオスカー・ワイルドの「幸福の王子」とベルギーの伝説を基にした「フランダースの犬」が圧巻である。死後街中の銅像になって初めて庶民の生活の苦しみを知った「幸福の王子」は身に着けた宝石や金箔をツバメを使って貧乏人に配った。最後は目のルビーを配り、盲目で丸裸になり冬が訪れてツバメとともに倒れる。自己犠牲を教える高度な哲学が子供心をとらえる。
 フランダースの犬は、貧乏な少年ネロが画家になりたい志を持ちつつ、コンクールに白墨で描いた絵を応募するが落選し、唯一人の祖父も牛乳売りの仕事も失い、放火の疑いまでかけられた。最後、クリスマスの夜に一度見たかった教会のベラスケスの絵が風で幕が落ちて目にし、生涯の友の犬パトラッシュと共にそのまま凍死する。志を果たすことは叶わなかったが、最後に一つの夢を実現して死ぬ。たとえ果たすことができなくても志を持って真摯に生きることを教える。
 幸福の第一要素である情緒は我々の心の中に住み、第二要素の経済的社会的活躍や、第三要素の成功失敗の数によって組み立てられる人生の真の幸福感をもたらすものと信じる。第二、第三要素は青壮年の時は重要でも、高齢期に入れば、圧倒的に第一要素の情緒的幸福が重要となる。
 わが身に立ち帰れば、職業人生には恵まれたが、選挙は敗北を重ねた。つまり、経済社会的には満足したが、選挙による失敗はその成果をも食いつぶした。しかし、自ら導いた幸福の基準からすれば、幸福の王子の自己犠牲、言い換えれば社会貢献のために政治を志し、ネロ少年のように志は遂げられなかったが、最後の一幅の絵を見る機会が残っている。それは、人口が増加に転じ、多くの豊かな情緒を持った子供たちの日本を感ずる絵である。それを見ることができれば至福である。

[2022/03/10]
燕雀鴻鵠



 史記に「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」とあるそうだ。つばめやスズメなど小物は、おおとりや白鳥など大物の志が分からないと解される。我々のほとんどは小物だ。毎日のマスコミの報道を鵜飲みにし、世界のどこかの大物の意図や策略は分かりそうにない。
 アメリカはインフレ懸念だが、ロシアのウクライナ侵攻により、コロナの影響を凌駕して、原油や小麦価格が高騰し、金融縮小(テーパリング)を正当化する。
 そのアメリカは原油にも小麦にも実際には困らない原産国である。バイデン大統領は賢くも、ロシア侵攻前から「NATO」は参戦しないと明言し、実質的にウクライナを救うことができない。原油が無ければ、原子力発電があり、地球温暖化よりも石炭を使う必然性の方が重要になる。戦争はウクライナを疲弊させながら、世界経済は過去回帰になるのではないか。アメリカという大物の意思を知りたい。
 西側諸国が一丸となって、「プーチンの誤算、プーチンは気が狂った」と叫ぶ。チェチェンでも、グルジアでも、クリミア半島併合でも、正気でやり通したプーチンは果たして気が狂っているのか。ウクライナ人の本当の気持ちも、ロシア人の本当の気持ちも我々同質性社会に住む日本人には分らない。だが、欧米メディアの報道以外に接することなく、ロシア語なぞ知っている人やメディアは日本では稀有であることを考えると、プーチンという大物の意図は知りようがない。
 インド、中国、トルコ、イスラエルは、自国の国益を考えた外交を展開している。欧米と足並みを揃えてはいない。インドが安保理事会でロシア非難決議を棄権したり、トルコが仲介を申し出たりするのは、歴史的にこれらの国が「大物」だからだ。
 日本は大物の真似はできない。日米安保条約は最大限尊重しなければならない。しかし、その中でも、物価高騰や北方領土問題など国益に関するものには手を打たねばなるまい。コロナには目の前の感染者を救う義務があるが、ロシア侵攻には国民経済の破綻を救う義務があることを永田町は意識しているのか。与野党ともに、ひこばえ政治屋と職業経験の無い選挙屋の集まりで機能不全となっていないか。ひこばえは軒下に巣くうつばめ、選挙屋は損得で動く竹林のスズメだ。
 小物でもいい、国益だけは自ら決める外交であってほしい。
 
 
 

[2022/02/14]
異端のノーベル賞受賞者モンタニエ博士逝去



 去る2月8日、エイズ発見で2008年ノーベル賞を受賞した仏パスツール研究所出身のリュック・モンタニエ博士の死が伝えられた。ここ数年、科学国際会議で数回お目にかかったが、車椅子から、ご老体にも拘らず主張は強固であった。
 博士はノーベル賞受賞後、免疫学者として、あらゆる疾病において免疫を高める治療法を勧め、抗がん剤や放射線治療を否定し、予防接種ワクチンの害を主張してきた。博士によれば、自閉症や精神病にも、免疫療法が有効で薬物療法を徹底的に攻撃した。
 しかし、その発想は、欧州の民間療法ホメオパシーにつながるもので、大方の医学者の顰蹙(ひんしゅく)を買った。にも拘らず博士の主張は年々高まるばかりで、新型コロナについては、コロナウィルスは武漢で人工的に作られたこと、ワクチンは害毒であることを主張し、世界の政府やマスコミからは背を向けられた。
 ただ、ワクチン接種の義務化についてフランスで激しい抗議デモが行われた陰には、自由を信奉するフランス人の中に、博士の学問的裏付けを信奉する一定数の人々がいたことを表している。
 ワクチンはアメリカの製薬会社ファイザーとモデルナが世界を席巻し、巨大な利権を得た。イギリスのアストラゼネカ社とオックスフォード大が共同開発したワクチンは及ばず、サラ・ギルバード・オックスフォード大教授は新型コロナ発生前から感染症Xを予期してワクチン開発に取り組んでいたものの、アメリカの巨大利権にかき消された。
 政府、世界的な大企業、マスコミのいずれにおいてもアメリカが巨大な権力を誇る。この3つの権力が一緒に選んだ道が「正しい道」あるいは「世界の主流」になる。モンタニエ博士はそれに一石を投じようとしたのだが「頭のおかしいノーベル賞受賞者」と隅に追いやられた。勿論、筆者はモンタニエ博士の理論の是非を語る科学的知識を持ち合わせないが、世界の主流が常に正しいとは限らないのも事実だ。
 考えてみれば、2回もワクチン接種しても免疫が足りないから、6か月後にブースター接種をしろというのでは、科学のレベル、為政者の政策に疑いを抱いても仕方あるまい。しかし、我々は、政府、大企業及びマスコミが一体化した大船に乗って(と信じて)行動せざるを得ないのである。
 医療、教育、福祉という社会サービスの中で、教育と福祉は一般の批判者が多いが、医療は供給側(医師)と需要側(患者)との情報の非対称性ゆえに正当な批判はできない。ただ、少なくとも、医師の考えを知り、その治療に信頼を置くことが個人に求められ、そこまでの教養水準を保って現代を生きるべきである。異端の医師モンタニエ博士のご逝去に際し強く思う。
 



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