元衆議院議員(茨城県第6区)[無所属]大泉ひろ子オフィシャルサイト
大泉ひろ子のプロフィール 日々雑感バックナンバー 後援会・党員・サポーター募集
日々雑感
[2017/03/20]
男女共同参画のマンネリ化



 第61回国連女性の地位委員会は、3月13日国連本部で開会した。翌14日には、ニューヨークは大雪に見舞われ、会議は一日閉鎖された。委員会には同時進行のNGO主催のイベントが100近く開催される予定だったが、この日は全てキャンセルになった。
 私は、NGOの招待で参加を得た。開会式は、政府代表の集まる会議場ではなく、モニタリングルームで聴いた。
 1946年、国連の経済社会理事会(ECOSOC)によって創設された国連女性の地位委員会は今回で61回目を迎え、20世紀には、もっと発信力のある世界女性会議を催した(75年、80年、85年、95年の4回)。80年のコペンハーゲンでの世界女性会議には、若き日の私は、政府代表団の一代表として、女子差別撤廃条約の署名を見届けた。男女平等の実現は、かくも長年にわたる国連のテーマである。
 今回の開会式では、ブラジル代表が議長に選ばれ、アントニオ・グテーレス国連事務総長、経済社会理事会代表、ILO代表、世界各地域の代表などが演説をした。メインテーマは、「変化する仕事の世界における女性の経済エンパワーメント」。分かり易く言えば、女性の労働市場での活躍と言えよう。
 このテーマの下では、日本は先進国の中で最も遅れている指標を持つ。GGI(ジェンダーギャップ指数)は144か国中111位であり、経済、教育、保健、政治等の総合指数で男性との差が大きいことを表している。日本の女性の平均賃金が男性の50%台であることが影響している。欧米では80−90%台である。
 日本や韓国は、出産・子育て時期に女性が労働市場から遠ざかるM字型カーブで有名だが、これを「お国柄」と認めるのか、それとも先進国の指標に近付ける努力をするのかが問われる。日本の国内総生産は、この20余年伸び悩み、アメリカと中国に大きく水をあけられているけれども、女性の平均賃金を欧米並みに引き上げるだけで、国内総生産は上昇することも考慮しなければならない。
 今年1月1日に就任したばかりのポルトガル出身グテーレス国連事務総長は「私は(残念ながら)男です」と笑いを取り、「女性の権利は人権だ」というところで拍手が起きた。この言葉はヒラリー・クリントンも使ったことがある。グテーレスは一見したところ親しみやすく、英語も分かり易い。前総長の潘基文氏は、英語も下手だし、英エコノミスト誌などに最悪の事務総長と書かれ、評判は散々だったが、グテーレスはいいスタートを切ったのではないかと思われた。
 もちろん、シリアなど紛争に取り組まず、韓国人脈を国連に引き入れた潘基文前総長に対する批判を踏まえ、グレーテスが紛争などをいかに仕切るかが期待されるところである。
 紛争問題などに比べると、男女平等の問題は、些かまどろっこしい。1975年から85年までの「国連婦人の10年」の時期には、男女平等は輝かしいテーマであったが、先進国が女性の社会進出を果たしてきたのに対し、特にイスラム圏やアフリカなどは古色蒼然の女性差別から抜けきらないままだ。ノーベル平和賞を受賞したパキスタンのマララさんが「女子にも教育を」と訴える事実は、先進国にとっては遠い昔のことだ。
 日本は日本で問題を抱える。男女平等を男女共同参画と言い換えた現今の状況は、21世紀に入ってバックラッシュに遭い、雇用機会均等法以来の大仕事はできていない。掛け声で空回りしている世界だ。それは、国連の会議も同じ。皆が皆、同じようなことを演説している。しかも、スライドも何もない、ただ抽象的な演説を代わる代わる行う、方式としても遅れた取り組みだ。
 国連の議論に負けず劣らず、国内における男女共同参画は、ますますのマンネリ化を感じてならない。そして、テーマに事欠いて喫緊の課題である少子化対策と関連づけることは避けるべきだ。日本が一番遅れている労働市場での問題を制度的に取り組むことが必要だ。やるべきことを間違えてはいけない。甘ったるい「女性が活躍する社会」の作文は要らない。

[2017/03/10]
21世紀の覇者は?



国際情勢を語るとき、バックグラウンドによって視点が甚だしく異なる。商社マンは生死を賭けた取引を語り、外交官はパーティー外交の積み重ねで教養を語り、学者は自説に拘泥しつつ語る。
 昨日お話を伺ったのは、荊木顕治さん。トヨタ自動車の海外拠点づくりエクスパートであり、ビジネスマンの視点だ。荊木さんの視点はすごい。21世紀のエネルギー革命は中国とイギリスが担うと主張する。
 ロックフェラーによって石油大量消費経済がもたらされ、米国が支配してきた世界は終わり、中国がスマートグリッドと衛星測位システムを使ってユーラシア大陸において、イギリスが同様に旧英連邦コモンウェルス諸国において、電力市場と二酸化炭素排出権市場を支配すると言う。両国で世界人口の8割を制するとのこと。中国は共産政府が、イギリスはロスチャイルドが担い手となり、その実行は始まっている。
 トランプ米国は独自に電気自動車への切り替えとメキシコ境界の壁にソーラーパネルをとりつける事業を始めようとしているとのこと。これらは、荊木さんの情報網によって得た国際情勢であり、もちろん、今のところ分からない。荊木さんの話を端折ってここに書いたが、マスコミの当たり前の情報でなく、現地でビジネスの先端を担って来た人の話として、興味津々である。
 日本は、感情的に中国を過小評価しがちである。それよりもまずいのは、日本が日本を過大評価していることである。日本はさまざまの分野で順位を落としている。その自覚を持って、国際競争の場で生き残らねばならぬ。日本のエネルギー政策は最も曖昧なエネルギーミックスに留まっているではないか。
 荊木氏の話とテーマは異なるが、日本の順位が際立って低い「女性の経済的活躍」の討論が国連で始まる。明日ニューヨークに向かうので、10日ほどこの欄をお休みする。

[2017/03/04]
自然エネルギー展示場にて



 昨日、鳩山由紀夫氏の自然エネルギー研究会がビッグサイトのエグジビションを訪問した。風力エネルギーと太陽光エネルギーの企業がその開発製品を競うように商談に臨んでいた。
 特に太陽光発電の製品は中国の企業が多かった。日本の太陽光パネルは中国に席巻されていると聞くが、説明者によると、パネルには技術的に大きな差がないそうで、中国は価格競争で有利だ。
 中国の出展企業は鳩山氏の到来に喜ぶ。鳩山氏はAIIBの顧問を始め、トランプー安倍ラインが忌避する中国との付き合いを独自に進めていることを中国人は知っている。中国企業の人々と記念写真を撮りながら、パネルだけでなく、パネルの掃除や雑草刈の機械なども面白く見学できた。中国は広大な国土を活かし、太陽光発電も風力発電も精力的に進めていると言う。それに、原発も、だ。
 鳩山氏は、自身の総理時代の国際公約、2009年の国連本部での2020年までに1990年比二酸化炭素25%減を念頭に置いて活動を続けている。安倍政権では2020年までに2005年比6−7%減へと改めているが、このテーマを自身のライフワークとしている。
 氏のもう一つのライフワークが東アジア共同体構想で、対米依存外交からの脱却を考えている。その意味では、安倍総理も対米依存は悲願(そのために憲法改正を望む)だが、現実主義外交に勤しむ。鳩山氏は団塊世代、安倍氏は少し下だが、ともに戦後の対米依存を政治、社会、文化等如何なる面でも浸かってきた世代だ。大政治家の帝王学を学ばされた二人は、特に強い思いがあろう。二人には、現れ方は違うが、この点では共有するものがある。
 親中国、親自然エネルギーは左翼の政策パッケージと適合する。それが鳩山氏へのバッシングの一因になっている。左翼スローガンに堕さず、科学と産業のための政策を明確にしていく役割を鳩山氏は担っているはずだ。ちょうど、右翼サイドからは森友学園問題が浮上し、右翼政策パッケージの危うさを露呈してきた。
 今こそ、日本の選ぶ道を国民的議論すべきだ。
  

[2017/03/01]
認知症に新しい風?



 一昨日、認知症のキョーメーションケア研究開発と実践をしている波田野政治氏の話を聴く機会を得た。脳科学を使い、認知症行動を起こす脳の位置を特定させ、様々の行動に対応する緩和方法を開発している。徘徊などの異常行動が7割以上の患者において緩和されるとのことだった。
 認知症に関する論文には、化学療法ではなく、昔話によるコミュニケーション療法などを見かけるが、医薬品や医療機器と違い、これらの療法は治験を行った上で確立した療法として認められることは難しいだろう。
 他方、新薬については、認知症の原因となる物質アミロイドβを除去する薬などが登場しているが、一般的な治療としてまだ知られていない。また、この欄で既に紹介したが、ノーベル賞学者リュック・モンタニエ博士の講演によれば、酸化ストレスを除去する認知症治療法も確立していると言う。
 460万という日本の認知症患者にとって、これらの治療法に医療保険がどう対応するかがまさに課題であろう。現在では、年間新たにガンと診断される患者数は90万人。死亡は年間35万人。ガンが何と言っても克服すべき第一の疾病である。しかし、患者数から言えば、認知症は、死亡には至らないが、ガンに負けるとも劣らない優先順位の高い疾病になった。
 研究開発から治療へと向かいつつある認知症だが、現在同時に必要なのは、認知症患者の尊厳と財産を守り、QOL(生活の質)を高めることである。どんなに「予防生活」を自分なりに送っても、それは死へのモラトリアムでしかなく、最後にかかる死ぬための医療費は同じだとする研究もある。ならばこそ、生活の質を高める方法に力を入れねばなるまい。

[2017/02/27]
中東の女性



 一昨日、中東で活躍する女性の講話を聴く機会があった。その中で印象的だったのは、「中東の女性は、家の中のお母さんとしての地位が高い」ということだ。家の中では、お母さんを助け、お母さんを尊敬している。
 中東の女性と言えば、多くは、イスラム教徒の女性を思い浮かべる。チャドルを被り、そうでなくてもスカーフを被り、男性と一緒でなければ外出できず、教育も公職も制限され、姦淫は厳罰だ。国によって温度差はあるが、概ね、不自由で、人権を侵害された女性の代表格として語られている。
 その裏返しが「母性信仰」なのは頷ける。母とならねば一人前ではなく、母は家を支配するが、家の一歩外を出ると、ただの性的対象になる。アメリカ人の女性に訊いた話では、サウジで普通の恰好をして独り街を歩いたら、あちこちで男の手が伸びてきて酷い目に遭ったと言う。
 イスラム圏だけでなく、かつては、多くの地域で女性は不便を感じて生きてきた。40年前にメキシコのバスに乗って、当時のメキシコらしく、夜間バスが故障して車内が真っ暗になると、どこからともなく男の手が伸びてきた。また、30年前、インドで映画館に独りで入ったら、観客は全員男で、私は、じろじろ見られた。映画どころではなく、早々と出てきてしまった。
 多くの地域で、社会の成熟とともに女性は自由を獲得してきた。遅れていたカトリック圏も変わってきた。現在、取り残されたのは、イスラム圏とアフリカであろう。そこは、男たちが血で血を洗う紛争を繰り広げている。母ではなく「女」の政治参加があれば、もしかしたら、状況は一変するかもしれないと期待を抱く。
 翻って、日本女性は、今も社会進出の国際順位が百位以下だが、多くの自由を獲得している。教育も、職業も、配偶者選びも、だ。その自由をもっとうまく使えるように、そして、欲を出して、歴史的に捨てたか忘れたかの「母性」をもうまく自分の価値にすると、社会は変わる。子を産めない男たちは母性を持つことはできない、その男たちのすさんだ社会を救ってやれるのは、やはり女なのだから。
 老婆の言葉になってしまったが、母性あれば少子化を些かでも覆せる。
 

[2017/02/24]
国連女性の地位委員会に向けて



 来たる三月、国連女性の地位委員会にNGOの御招待で参加するため、そろそろ準備をしなければと思い始めたが、男女共同参画の歴史を振り返ると、日本が、女性の社会進出に成功していない理由が多く思い出される。芳しい分野ではない。
 国連主催の世界女性会議は、1975年のメキシコに始まり、デンマーク、ケニア、北京の4回は、日本のマスコミは大きく取り上げてきたが、その後の活動は、日本の男女共同参画政策の低迷と相俟って、あまり騒がれなくなった。他の分野と同様に、日本は先進国に追い付き追い越せをやって来たが、残念ながら、女性の社会進出に関しては、未だ追いつくことのできない結果になっている。
 90年代、男女共同参画が勢いを持っていた頃、「女性にできないことはない」の理屈に加えて、「男性が家事子育てをやらない、セクハラをする」という男性攻撃の趣旨も多く含んでいた。ひいては、その男性の在り方が少子化現象をもたらしたとの説明までされていた。
 現実には、それは正しくない。データ分析でそういう結果は出ていなし、現在の常識では、学歴の上がった女性と釣り合う男性の数が相対的に減って、結婚できなくなったのが少子化の原因だ。男性の習性を変えることに期待しても、それが少子化や社会構造に影響を与える度合いは少ない。
 やはり、男女共同参画という考え方はイデオロギーが先行して、女性の社会進出にはそれほど役立ってこなかったのではないか。日本の特徴をもう一度考え直してみる必要がある。日本女性で活躍目覚ましいのは、キャスターのような人の目に写る派手な分野出身の人である。医師・弁護士のような資格を要する職業の女性も増えたが、その伝統分野では、なかなか頭角を現せない。世の中に躍り出る可能性の高さから、優秀な女性が目指すのはキャスターやアナウンサーだ。
 これに対して、アメリカでは、ヒラリー・クリントン、ジャネット・イエレン(FRB総裁=中央銀行総裁に該当)、シェリル・サンドバーグ(フェイスブックCOO最高執行責任者)などハーバードやイェールで成績優秀を修め、社会のキャリアラダーを上り詰めてきた人々は地味な職業生活から出てきた。それはとりもなおさず、女性のすそ野が広いことを意味する。日本女性も美貌とセットの派手な職業ではなく、もっと地道な職業を選び、すそ野を広くしてほしい。
 何よりも重要なのは、トップの女性づくりよりも、女性の多い職場、保育所、病院、介護施設で働く女性の処遇改善だろう。女性の社会進出というとき、トップの女性を象徴的につくるのだけが仕事ではない。すそ野の足腰の強い女性の集団を作っていくことが最も求められている。
 そして、もうひとつ。女性の社会進出と少子化を下手に結び付けないことだ。少子化は少子化で別の手を打つべきである。
 
 
 

[2017/02/21]
こういう見方もある



 昨日、都内某所で、村田光平元スイス大使の「世界の政治は母性文明に移行する」という趣旨の話を聴く機会があった。村田氏は、父性文化と母性文化の例を多く挙げ、父性文化である軍国主義と経済至上主義が破局をもたらし、生命重視の母性文化による政治に代わると説明。その流れはオバマが作ったとのこと。
 間違ってはいない。学問的手法ではなく、世界を歩いた教養人としての外交官人生から得た結論であろう。この話を聞いて、外交官OBにもさまざまな方がいると改めて思った。保守論客の宮家邦彦、岡本行夫から、革新論客の孫崎享まで、ビジネス界とは少し離れたところで政治社会を考察する恵まれた経歴を活かしての人材だ。
 村田氏は、因みに核廃絶論者であり、そのベースの哲学に母性文化を充てた。母性文化はイコール女性文化ではないとしながらも、女性が多い「環境保護、核廃絶」の市民活動に資する考え方だ。村田氏の予言する方向に行くかどうかは定かではないが、父性的な(エスタブリッシュメント的な)ヒラリーが敗れ、母性的な(保護主義的な)トランプが勝って、そのものの見方は、示唆的ではある。
 村田氏の「学問」は強いて分類するならば、国際比較文化論に該当する。筆者が、オーストラリアで国際関係を勉強している頃、アジア経済危機、アジアの紛争、国際関係理論以外に、国際文化比較論「国際政治における倫理と文化」のクラスも採った。こういう内容は何故か女性の研究者が多く、残念ながら、最も面白くなかった。
 それは、あたかも、マーガレット・ミードの文化人類学が実証なき学問として評価が落ちたように、社会科学としての手法に疑問を感じてならない分野であった。定性的な観察結果を理論と称し、「日本は、ドイツのようなキリスト教国と異なり、戦争の謝罪ができない国である」と結論した。私は、その結論にクレームしているのではない、学問の手法がどこにあるのかと疑問を呈しているのである。
 話を戻すと、日本が母性文化の国(母系社会)であることは認められた事実である。千年以上の通婚社会、父系母所の子育ては揺るがざる証拠である。しかし、母系社会に母系文化の政治社会が現れるかどうか、もっとデータ収集と研究をする必要があろう。
 

[2017/02/18]
ヒラリーの今後、そして・・・



 米民主党の大統領候補指名競争でオバマに敗れ、8年間待ったヒラリー・クリントンは「今度こそ、女性大統領」と信じたであろう。敗者の弁で気丈に語ったヒラリーは、若い女性に向かって自分に続くよう促す言葉で結んだ。
 キャンペーン中、何度も使った「ガラスの天井」。ヒラリーはついに最後の天井を破れなかった。米国の歴史にその名を「初の女性大統領」として残すことはできなかった。
 8年前のヒラリーは「次」を目指して、国務長官(外務大臣)の職を勤め上げた。しかし、ここでヒラリーは個人メールを使って発信したことが大きなマイナスになった。弁護士ヒラリーが何故そんな基本的な過ちを犯したのか。
 ヒラリーは、若き日に子供の権利を守る弁護士として活躍し、夫のアーカンソー知事選を助け、夫の不倫をも庇い、クリントン大統領の下で医療保険制度を作ろうとした(失敗に終わる)。名実ともに優れたキャリアウーマンであり、ウーマンリブの先頭に立ってきた。だが、今や、キャリアウーマンもウーマンリブも旧価値に属し、女性を鼓舞する言葉ではない。
 ヒラリーがさすがに4年後を目指すことはないだろう。なぜなら、ダークホースのトランプが選ばれた理由がヒラリーにあることを彼女自身も認識したからだ。人々は「ヒラリーでない人」を選んだのだ。大量の資金を集め、常に人の上に立ってきた姿勢を崩さなかったヒラリーは人々の心から外れていた。キャンペーン前に出版した「困難な時」などの著書は、国務長官時代の出来事の羅列で、退屈な内容だ。心を打たない。
 1970年代、ビル・クリントンと共に、大学のキャンパスで撮った写真のヒラリーは今とはまったく違う。ひっつめ髪にズボン姿。化粧はない。そう、同じころ、アメリカの大学のキャンパスにいた私もヒラリーと同じ格好をしていた。ついでに言えば、ビルはヒッピーのように髪を伸ばし、そのころの男子学生そのままだった。
 なりふり構わずに、弁護士になるために勉強していたヒラリーが、やがて、政治家の夫のためでもあるが、金髪に染め、化粧と派手な服で自分を変えた。そして「受ける立ち居振る舞い」「受ける話しぶり」を身に着けるうちに本来の質素なヒラリーの姿は失われた。いつしか仮の姿の本人が本物になっていった。
 私は、ヒラリーが今後どうするかを見守りたい。ヒラリーの気持ちの少しを私も共有するからである。思い切って官僚を辞め、衆議院議員は一期で終わり、人口23万の首長選にも敗れた。ヒラリーとは比べ物にならないが、同世代の女性として、1970年代の原点に返り、新しい価値を創造したい。
 蛇足だが、もしかしたら日本のヒラリーになるかもしれなかった元検事で弁護士であった佐藤欣子さんのことを書く。最近ひょんなことから、74歳で亡くなって8年余になる欣子さんの思い出話をする機会があった。欣子さんは、1980年代は、間違いなく「日本をリードする5人の女性」に入っていた。しかし、中曽根総理のバックにも拘らず、1989年の参議院選挙に落選し、欣子さんは二度と政治を目指すことはなかった。
 欣子さんの無念の思いを私は深夜にかかってくる電話でいやというほど聞いた。欣子さんは、もしかしたら総理を目指したかもしれない女性だった。東大法学部時代は、ヒラリーと同じく、同じ服で勉強ばかりしていたそうだ。その後の欣子さんは、反動的に、外見にこだわり、化粧や服装が派手であった。保守の論客で強面の議論をする欣子さんは決して女性の人気者ではなかった。ヒラリーと重なるところがあり、それをきっかけに欣子さんを思い出したので、ここで哀悼の意を表したい。
 アメリカは女性の社会進出層が厚いが、日本は極めて薄い。21世紀の新たな価値創造に、再び、これまでとは異なる女性の社会進出の在り方を課題とすべきである。
 
 

[2017/02/16]
国際関係論が書き換えられる日



 昨日、都内某所の勉強会で、改めて民主主義という価値の創出の歴史とキリスト教文化圏によって説明される「我々の世界」を辿った。民主主義の歴史にアジアは登場しない。
 国際関係の理論は、ツキュディデスとカントの古典から始まる。現代はモルゲンソーやウォルツが必須の教科書だ。10年余前、2度の国政選挙に敗れオーストラリア国立大学大学院で勉強していた頃、「中国の台頭は、国際関係論を塗り替えるだろう」と予言されていたが、果たして、何も変わっていない。
 孫子の兵法が必読書に挙げられることはないし、中国からその中華思想を覇権主義の理論として登場させる試みもない。だとすれば、国際関係論という学問は永遠に西洋史をベースにした世界の理解に終わるのか。既存の理論を当てはめて中国などを理解することになるのか。
 国際関係論の理論は自然科学に比べれば脆弱だ。いや、無いに等しい。月面着陸するのに、精査した計算を使い、理論値通りに到達させる。これに対して、社会科学の方法論は、データと数学を最も使う経済学でも、理論値が当たった例がない。つまり、理論とは言いつつ、定性的な評論に堕しているのだ。いわんや国際関係論においてをや、である。
 フランス革命やアメリカ独立戦争を経て、民主主義という価値を世界に広めてきた西洋史的発想によれば、アジアの世界は政治社会的に遅れている。しかし、現実の世界は、人口規模からみても、生産消費の規模からみても、アジアが主張する時代が訪れている。そのアジアが世界にものが言えないのは、もしかすると政治のせいばかりでなく、学問の勢力が弱いからではないか。日本も、自然科学でのノーベル賞は増えたが、世界を席巻する社会科学者は現れていない。
 戦前は東洋・アジアを勉強するのは右翼だったが、現在はアジアを強調するのは左翼になった。この現象は、学問の基盤の弱さを露呈しているにすぎないと思う。学問や理論を欠く政治は瓦解する。だから、我が国も「もっと学問を」。
 
 
 

[2017/02/13]
科学と芸術



 昨日、「滝夜叉姫伝説」(冠木新一プロデューサー)を観劇した。千年前、平将門の遺児滝夜叉姫が抱く仇討の念と部下の恩讐にまつわる地元の伝説を劇化した内容だ。滝夜叉姫は、部下の子孫に父から授かった埋蔵金の地図を脅し取られてしまう物語である。出演者は桜川芸者学校の方々で舞を中心に見せるプロデュースである。
 先週は科学会合で、科学の政策応用について考え続けたが、芸術の伝えるメッセージは、科学と真逆で、見る人によってとらえ方が全く異なる。この劇に関して言えば、伝説は口から口へと伝えられていくため、そのたびに主観が入って、元の話とはかけ離れたものとなっていく。恩讐という、心にある見えないものの現れをいかに解釈するか、それは見る人の自由だ。自分の人生に当てはめて答えを出すのである。
 恩と讐のあざなえる人生に一応の決着をつけ、地平線の彼方にある真実を追い求める科学という方法に私は賭けている。究極、科学の真実は一つであり、その一つに収束させる過程にいつも置かれている。ニュートン力学が否定され、アインシュタインの相対性理論も絶対ではなく、あるはずと言われたヒッグズ粒子も確認できない。しかし、一つの真実に近いところでみなぐるぐる回っている。芸術のように人々の思いが拡散することはない。
 芸術に対する理解の浅さを露呈してしまった。今回の劇の終わりに観劇者も招じ入れ舞の輪が作られた。日本の舞は、華麗な衣装でゆったりとした動きの農耕社会文化。太極拳のバリエーションにも思える。対して、西洋のバレーは激しい動きでプロしか踊れない。狩猟社会では、突出した技術を磨くことが尊敬され、プロを生み出していった。そのことが科学の発展にもつながったと考える。
 農耕社会は狩猟社会の科学の発展にかなわぬだろうか。芸術に疎い人間が観劇中に、日本の科学基盤の脆弱性を憂えるというとんでもないことをしていた。
 



前ページTOPページ次ページ






(↑)このページのTOPへ

プロフィール 日々雑感バックナンバー 後援会募集 HOME

(C)2009. HIROKO OOIZUMI. All rights reserved.