元衆議院議員(茨城県第6区)[無所属]大泉ひろ子オフィシャルサイト -大泉ひろこの徒然草(つれづれぐさ)-
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日々雑感
[2018/02/07]
老い



    昨日、ニューヨーク株式市場で暴落が報道された時、もしや、と心を曇らせた人も多いのではないか。エコノミストは、株価の調整時期と見る人が多いが、来年以降はリーマンショック並みの金融破綻がないとは言えない。世界の景気が過熱し始め、中国も大方の予想を裏切って好調だ。先進国の中では、一番低い成長率の日本は、かつての日本を「回復」できるのか、それとも人口減少と共にずり落ちていくのか。
 今、世界経済の舵取りを行っているのは、成功体験のある米、独、英、中、日などの終戦後生まれの政治家だ。トランプは家業の不動産業を発展させ、その方法論であるDEAL(かけひき)を政治の手法としても使っている。法人税など減税に成功して国内のDEALにひとつ勝った彼は、北朝鮮以上に中国とのDEALに勝負をかけるだろう。TPPに加盟するかもしれないとの情報は、やっとトランプがTPPは対中国のルール作りであることに気付いたのだ。「老い」の彼は経験から学ぶと、私はまだトランプに些かの望みをかけている。
 トランプのDEALは政治手法としては歓迎されず、また、「老い」てから政治に登場した彼を老害と決めつける多くの人もいる。長く人生をやれば成功失敗が相半ばし、批判するのは簡単だ。しかし、若い未経験の政治家に比べ、「老い」は国益だけを考える存在であると私は信ずる。フランスの最年少大統領は今や失望の存在であり、仕事はできない。日本でも、若い政治家は不倫と暴言だけが報道され、およそ仕事にならない。
 さて。「老い」を引き出すために政治論議までして回り道をしてしまった。「老い」を拒否し自刃した三島由紀夫と「老い」を享楽三昧に過ごした谷崎潤一郎の二つの対照的な生き方がある。多くの人はそのどちらでもなく、日常の繰り返しの中で衰弱して死にゆくのかもしれない。すると、三つの生き方があると言うべきか。
 最近、画像で、エンゲベルト・フンパーディンク(60−70年代に一世を風靡した英国人歌手、代表曲リリースミー)が80歳を過ぎて妻のアルツハイマ−病と闘っている姿を見た。若き日の彼の、インドの貴公子が如き顔と立ち姿のシルエットの美しさはそこにはなかった。しかし、彼が唄う歌は若い頃よりもはるかに心を打つものであった。彼は今もステージに上る。歌って歌って磨き上げた歌三昧の老後は、谷崎潤一郎型だ。耽美主義である。
 70年代、私がアメリカに住んでいた頃、世界が恋するピアニストとして持てはやされたのがリベラーチェ。クラシックをポピュラーにアレンジし、目にも止まらぬ速さで鍵盤に指を走らせる。彼の奏でるピアノは、あまりにも巧みであまりにも美しい。この上もなく端正で甘いマスクをしていて、ピアノを弾きながら、トークやダンスや歌を披露し、いずれも上品で最高の質であった。
 ピアニストというより、恐らく日本ではこういうエンターテイメントの分野はないと思われる、エンターテイナーであった。男色家と噂され、87年、それこそエイズが真っ盛りの時代にその病気で亡くなった。何百億ドルの遺産を残したが、彼自身の家族はなく、自らを美しく着飾った舞台衣装と数々の高級車が残った。美容整形や着飾ることで美しいイメージに固執し、男色もエイズもひた隠しに隠した。三島由紀夫型の生き方である。ちなみに、三島も男色家と言われる。
 私は、「老い」を受け止める。「老い」の政治に期待し、「老い」から死への選び方も真剣に取り組む。
 

[2018/01/30]
Society 5.0



総理が議長を務める総合科学技術・イノベーション会議の常勤議員である元東北大教授の原山優子氏からSociety 5.0(ここでは5.0と略す)の実践についてお話をお聞きした。
 5.0の定義は第5期科学技術基本計画によれば、「超スマート社会のこと。必要なもの・サービスを、必要な時に、必要なだけ提供し…<中略>…活き活きと快適に暮らすことのできる社会」である。
 多くの人にとって初耳ではないだろうか。しかし、経済財政諮問会議の2017年骨太方針にも言及され、日本経済再生本部と日本経済団体連合会の2017年の方針にも反映されている。れっきとした我が国の政策目標である。
 具体的な実践例では、AI(人工知能)を使って、事故なく快適にドライブすること、ロボット介護、多様なニーズに合ったものづくり、消費者に農産物の適時自動配送、アレルギー回避の食品提案、スマホによる確実な防災情報、需給調整しつつ電気の安定供給など広い分野にわたる。つまり、AIをど真ん中に置いて、確実性、計画性のある社会が5.0と言うことができよう。
 これらの中身は技術的には既にあるものばかりで、システム化できるかどうかの問題であるように思われる。システム化は、人々の生活に関わる技術ばかりであることを考えると、政府よりもむしろ地域あるいは地方公共団体主導で実現すべきではないか。
 36年前に筆者が住んだ都内恵比寿の家では、既にすべてが全自動になっていた。帰宅前に冷暖房が入る、洗濯機は全自動で乾いた衣服が出てくる、ガーベッジデスポーザー(ごみ処理機)付きの流し台でゴミを出す必要がなかった。しかし、電気代は膨大だったのと、洗濯した衣服はすぐに傷み、また、ごみ処理機は子供を近づけないようにしないと危なかった。さまざまの理由があって、36年前に技術的には既にあった「超スマート生活」は全国的に流行らなかった。
 東日本大震災の時も、実はスマート生活をしている人ほど大変な目に遭った。オール電化した家では、停電の最中、家の中で暖を取れずに車の中で過ごしたという。水道が止まって、井戸を残した家に人々は水をもらいに行った。
 超スマート社会を実現するには、低コストでなければならないし、震災などの事故の場合の対応まで含めたシステム化を図らねばならないだろう。さらに、人口減少社会で人が減っていく地域で、よりスマートに生きたいというモチベーションを維持できるかという問題もあろう。5.0に乗り出す地方公共団体がどれだけいるのか少々心もとない。
 それにしても、政府の宣伝は足りないのではないか。経済政策3本の矢の3番目、成長戦略が何も功を奏していない。5.0はシステムのイノベーションだが、新たなイノベーション産業と並んで、これも成長戦略の要となる。ならば、もっと堂々、政策として広め、大型予算を組むべきではないのか。5.0なんて、誰も知らないよ、安倍さん。
 そして、日本が目指すのは5.0だと国際社会に向かって叫ぶべきだ。既に、G20、OECD、G7などの科学大臣会合で表明していると言うが、話題に上らない。マスコミも書かない。お隣中国では、アメリカがグローバリゼーションから脱退したのをいいことに、一帯一路の国際戦略をぶち上げている。もともとは、TPPによって太平洋沿岸が日米のルール化されるのに対抗して、ユーラシアの内部やアフリカの中国ルール化を狙ったものだが、貿易だけが目的ではない。周辺のインフラ開発に乗り出し、そのためのイノベーションにも巨大な資金を投入している。
 中国の研究開発費のGDPに対する割合は、日本を抜き、アメリカも抜こうとしている。最近、ニューズウィーク等いくつかの経済誌が中国が研究開発をリードし始めたことを書いている。日本人は言う。「何、共産国家で自由に研究のできない中国なんか大したことないよ。ノーベル賞だって今までたった一人だ」。確かに、火薬の発明など唐時代に科学の先進を遂げていた中国は千年以上、この分野では眠り続けてきた。だが、侮っていいのか。
 世界の人々は一帯一路は知っている。が、Society 5.0は誰も知らない。日本人、もっと頑張れ。
 

[2018/01/22]
西部邁氏の死を悼む



   音楽家の不倫・引退会見、相撲界の再びの不祥事、北朝鮮の平昌五輪参加、いつもの喧(かまびす)しい報道の一方、西部邁氏の多摩川入水自殺は殆ど伝えられなかった。
 神経系の病に侵され、頭脳明晰は変わらぬものの、先生は死を予告していた。知識人界、言論界では、巨星墜つ、だ。きら星は流れ星の如く闇に吸い込まれていった。
 マスコミは保守系評論家、と彼を表する。先生はもともと経済学者だが、私には、社会思想家と言った方がピンとくる。社会科学のあらゆる分野で知性を惜しみなく発揮する。芸術も造詣が深い。何よりも、議論を始める前に、言葉の定義を語るが、この深さ、面白さ、歴史観、世界観に驚愕する。
 西部先生はこと民主党に関しては手厳しかった。かなり早い段階で「この党は解体するしかない」と言い放っていた。御自身は、60年安保闘争から足を洗って保守の論客に転じた経験があり、似非(えせ)革新を何より嫌った。民主党は、もともと非自民だけを標榜して、労働組合と松下政経塾が、それぞれ砂糖と塩を競って入れ続け、甘いのでもなく辛いのでもなく、保守でも革新でもなく、議員という地位を得るためだけの坩堝(るつぼ)となった。
 西部先生の予告通り、民主党、それを継いだ民進党、希望の党は解体寸前、今や時間の問題だ。解体序盤に仲間から外された立憲民主党だけが旧社会党再来のような形で残ったのは皮肉だ。
 私が2012年の総選挙で敗北した後、民主党を辞めたのは西部邁氏の影響なしとは言えない。政党も主知主義をとらねばならないとの西部流思想を選び、損得勘定だけの、土台のない政党を忌み嫌うようになったのだ。民主党政権時代に民主党が喜んで使った論客である山口二郎、金子勝、植草一秀、浜矩子などは皆、民主党系から距離を置いている。知識人界、言論界から遠ざけられた政治が成り立つとは思えない。
 西部先生は決して政権寄りでもない。安倍政権にも批判は向けてきた。しかし、右から左までの論客と渡り合い、西洋史に比べ議論の足りない日本近代史を論理的に再考し、自然主義的な日本の思想の基礎は保守主義であるとの確信は揺るがなかった。
 残念無念。西部邁は、もういない。日本の知性の柱は墜ちた。

[2018/01/11]
人口問題元年



2018年が明けた。どのマスコミも今年の課題は、北朝鮮と憲法改正の趣向を伝えている。もう少し踏み込めば、表面的と言われる好景気に対して労働分配率の向上が図れるかが、それに次ぐ課題だ。
 しかし、国家的課題は庶民の生活には遠い。人々は、介護保険料などで減る年金、いつの間にか「エリート」施設になった認可保育所に入れるかどうか、セクハラや不倫や猟奇事件に巻き込まれないか等、心配しながら日々を生きている。身を守ることに必至だ。
 その世相を反映してか、年末年始の街は心なしか静かだった。クリスマスの装飾も音楽も長年経験してきたが、2か月前の「新参」ハロウィーンにすら負けた。浅草寺や明治神宮の初詣客の多くがアジアの言語を話している。日本人は「引きこもり」になったか?松の内が終われば、成人式の日に、着物レンタル会社が負債を負ってトンズラし、若き乙女が一生一度の晴れ着を着る華やかな機会を失った。
 まるで人々が本当は危うい日本を察知し、華々しさから逃げるように、引きこもり状態に入ったような気がしてならない。本当は危うい、とは何なのか。北朝鮮問題は毎日のニュースで伝えられているように、少なくも政府が最優先の課題として取り組んでいるのが見えているが、他に日本の土台を揺るがす社会的問題があって、それは取り組んでいるように見えないことだ。
 人口問題と借金財政だ。昨年は94万の子供しか生まれていない。団塊世代の3分の1だ。借金は優に千兆円を超え、その対策は語られない。この2つは庶民にのしかかっている問題であり、2課題は互いに関連している。人口問題がある程度解決つけば借金は返しやすいからだ。
 AIが発達する世に人口は少ない方が良いとか、外国に借金していないのだから心配無用という議論がさんざん行われてきたが、そんな「ふてくされた」議論のために、人々は委縮してしまったのだ。先ずは人口問題に取り組むべし、それをやらねば消費は回復せず、真実にデフレ脱却はできない。
 社会保険中心に社会保障制度を構築することを決めた1950年、年金と老人医療の改革によって福祉元年と名付けた1973年、最初の少子化対策1994年と最後の社会保障制度である介護保険法1997年。戦後ほぼ20年おきに人々の生活に密着した制度が造られてきた。そう、最後の介護保険法からほぼ20年、今年2018年こそは人口問題に取り組むべき年である。
 

[2017/12/28]
睡眠科学と社会的問題



   今週、柳沢正史・筑波大国際統合睡眠医科学研究機構長のお話を聴いた。柳沢教授は、血液収縮作用を持つエンドセリンとナルコプシー(眠り病)の原因となるオレキシンを発見し、利根川進、山中伸也に続くノーベル医学生理学賞の日本人候補として期待されている。
 1991年から24年間にわたって、テキサス大学とハワードヒューズ研究所で研究を重ね、2010年には、内閣府の最先端研究開発支援プログラムから18億円の研究費を獲得し、其の後帰国して現在に至っている。
 哺乳類だけでなく、殆どの動物は睡眠する。昆虫、魚類、爬虫類、線虫、そしてクラゲも睡眠することが判明している。チンパンジーなど人間に近い動物は人間よりも長いが一定の時間眠る。動物によって睡眠時間が一定しているそうだ。
 先生のお話を記録するのは別の機会に譲るが、先生の結論は「なぜ眠るのか、なぜ眠気が来るのかはまだ解明できていない」であった。ただ、最近はやり出した「睡眠負債」は、労働生産性や国内総生産の低下につながることを十分考慮に入れねばならない。東京人は、世界の都市生活者の中で一番睡眠時間が短く、平均5時間28分分である。先生は、日本がドイツに比べ労働生産性が低い(ドイツの方が1.6倍)のも、ある試算によれば睡眠負債による日本の国内総生産3%損失も有意味に捉える必要があるとのことだ。
 睡眠科学は生物的な研究が主で、これまでも、疾病との関係は報告されてきた。それこそ先生自身がナルコプシーの治療にオレキシンが使えることを発見したのである。糖尿病やメタボなどにも研究は広がりそうだ。将来に向かっては、社会科学のアプローチが必要なのではないか。睡眠と寿命、知能、性格、睡眠の性差、年齢差などがすぐにでも研究テーマになるのではないか。
 意外な政策的解決方法が見えてくるような予感がする。その意味でも、柳沢教授の今後に大いに期待したい。先生は、アメリカが長かったせいか、最近ノーベル賞を取った「もの静かな」研究者とは異なる。青色LEDの中村修二教授や利根川進教授によく似たアグレッシブさを感じた。もしかしたら、今の日本に欠けているのは、研究や企業のアグレッシブさかもしれない。少子高齢社会の中で、アグレッシブがかき消されているのではないか。
 飲み会で、柳沢先生は、「アメリカに比べて日本食はうまい」と言った。そこだけ日本の男性みたいだった。

[2017/12/18]
社会的養育のビジョン



   厚労省社会保障審議会児童部会とは別に設けられた「新たな社会的養育の在り方に関する検討会」の報告書「新しい社会的養育ビジョン」は今年8月に公表された。その直後に、ある児童養護施設の理事長が、眉を潜めて報告書を私に渡した。
 この分野は知っている人が少ないが、報告は、施設で暮らす子供をなるべく減らし、家庭で育つ環境に代えていくべきであるとの内容だ。端的には、里親制度を積極的に利用すべきであるとの見解を出している。なぜ理事長が眉をひそめたかと言えば、施設否定につながる可能性があるからだ。
 「新たなビジョン」と書かれているが、実は、これは昔から何度も行われてきた議論で、「施設よりも家庭」が望ましいと結論しながら、施策に移すことはできないできた。現に、私自身が厚生省児童家庭局家庭福祉課長の時に、里親制度の活用と乳児院の縮小を考えたが、1997年の児童福祉法改正にのせることはできなかった。
 児童福祉は、このテーマだけでなく、検討倒れの山のような分野なのだ。しかも、少子化政策優先の中で、社会的養護、要保護児童の問題が世間的な追い風を受けることは一度もなかった。せいぜい、児童が起こした猟奇的殺人事件の際に、先ずは教育、そして家庭教育の在り方が議論され、その議論もほどなく消失してしまうという経過をたどっている。
 先日、この検討会の座長を務めた奥山真紀子先生(国立成育研究センター)の詳しいお話を聴く機会を得、要保護児童の世界で、日本が遅れていると指摘されてきた司法手続きの導入や家庭環境の整備に亀足ながら進むべき方向に向かっていることだけは認識できた。
 アメリカでは、親が育てられない子供は、里親制度の下で育てれる。あるいは、日本で言えば、養子縁組をして、実子のように育てる。しかし、里親制度は「我が家は5-10歳の養育」というように、連続して成人まで育てる制度にはなっていない。また、有名映画監督の養女性的虐待などが報じられ、人間を預かる仕事の難しさは周知の事実である。決して里親制度が特段優れているとは言い難い。
 日本の里親制度でも、私が改正を断念したのは、施設から子供を引きとった里親のすべてがうまくやれているわけではないからだ。「こんな難しい子は無理」と施設に返してくるケースや、子供自身が逃げてくるケースなども知って、たくさんの眼がある児童養護施設の方が相対的に受け入れやすいと思ったからだ。だが、その養護施設も、今は、極力、大舎制から、グループホームを付属させて小舎制に移行している。
 普通の子供も、親は選べない。親は大なり小なり、子供の抑圧者として存在している。自分は普通の家庭と思っている人々も皆、グレーゾーンの養育環境を作っていることは否めないのだ。社会的許容範囲を超えたときに、社会的養護の必要性が問われるのだ。
 程度の差として、社会的養護を必要とする子供がどれだけいるのか、実はわからない。子供の貧困についても、平均所得の中央値の半分の所帯に属する子供がそうだと言うなら、それは定義でしかなく、実数ではない。政策の方針は結構だが、対象の定量化ができなければ、施策にはならない。それが、いつも政策決定者の問題なのだ。
 検討会の報告には、これまで児童福祉は専門性を要求されてきたので、都道府県レベルで行われてきたが、身近な市町村レベルで行うことを推奨している。高齢者については介護保険を始め、市町村主体の事業である。障害の分野も市町村に移行したものが多い。児童は保育所だけが市町村の役割だ。しかし、児童の権利、養育の在り方は、とみに専門性を必要とする。市町村の人材を養成しないまま、役割を押し付けることは逆効果を生む。
 検討会報告が真実に施策に移していけるか興味を以て見守りたい。ただし、もう亀足の時代ではない。

[2017/12/09]
男女平等社会のイノベーション



   憲法14条、24条が男女平等を制定してから70年である。憲法と同時に民法改正、教育基本法及び労働基準法が男女平等の趣旨を戴して制定された。このうち、労働基準法だけは女子労働保護の規定とのバランスで男女平等の条文を入れることができなかったので、国連の女子差別撤廃条約の批准のため、1985年、男女雇用機会均等法がつくられ、遅ればせながら、家庭、教育と並んで、労働分野でも一応の男女平等の制度が整った。
 社会には成り立ちというものがあるために、家庭でも、教育でも、制度が変わった後、真に平等となるには時間が必要であったし、今も完全に平等とは言えない。それでも、大学進学率ひとつとっても、女子は男子に比べ遜色ない状況にあり、戦後70年かけて。女性の生き方は極めて自由になったことは誰も否定しないであろう。
 ところが、女性にとって結婚は生きていくのに不可欠ではなくなり、子供を持つことも必然ではなくなったため、出生率が劇的と言えるほどに落ち、人口減少社会を我々は経験している。これも男女平等の政策の成果あるいは結果であろう。
 内閣府が出す男女共同参画白書は、失礼ながら、毎年同じ金太郎飴のような内容であり、そろそろ新たな目標、目指す新たな社会を明らかにしなければならない時が来た。旧労働省が男女雇用機会均等法を制定して大きな仕事を終えた後、1994年、総理府(現・内閣府)に男女共同参画社会推進本部(本部長は総理大臣)ができ、主導権は労働省から総理府に移った。それまでの男女平等から、新たに男女共同参画という言葉に移ったのも、この時だ。
 1999年に制定された男女共同参画社会基本法第2条によれば、男女共同参画社会とは、「(前略)男女が均等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を享受することができ、かつ、ともに責任を担うべき社会」をいう。この文言には、草の根の感覚は感じられないし、男女で成る社会の上部構造の在り方だけを決めたように思える。エリート女性を生み出すための趣旨ではないかと誤解される可能性もある。
 この言葉が生み出された1990年代は、男女平等政策が右上がりの時代で、総理府が力を入れた仕事は、女性初の○○を作ることだった。現に、女性政治家が育っていないため、民間から女性の大臣を抜擢したり、防衛、警察などの分野に女性の採用を進めた。なりほど、それこそが男女共同「参画」なのだと初めて言葉の意味が分かった次第である。
 それは、一定の成果を上げたかもしれないが、民間はついてこなかった。利潤追求が企業の目的であれば、営業能力に関わりなく女性をトップにつけるわけにはいかない。せいぜい永田町や霞が関でしか通用しない政策なのだ。
 地方もまた、男女共同参画社会基本法の後に条例をつくるように促されたが、都道府県条例の後、市町村は、中央とは異なる趣旨の内容を定めた。「男らしく女らしく生きるための条例」だ。中央のエリート役人と田舎の温度差を明確に知らしめることになった。これに対して、内閣府は「地方のことは地方の議会が決めればよい」との国会答弁を以て応えた。バックラッシュの始まりである。以後、今日まで、男女共同参画の政策は下降線をたどっている。
 社会にあって男女平等の論客だった上野千鶴子さん等学者は、このテーマよりも高齢者にテーマを移すなどして、論壇も盛り上がらない。それもそのはず、もう女性初の○○作り政策は、古い手法で多くの人の関心を引かないのだ。若い女性はソッポを向いて、保守化し、内閣府が忌避してきた専業主婦志向も出現している。
 リーダー不在のこの分野で、今なすべきことは、女性自らの発想で、少子高齢社会を解決する男女平等の在り方を問い、政策哲学を構築していくことだ。女性初の○○よりも、女性の多い職場で、例えば保育や介護の職場で女性に十分な報酬がもたらし、誇りを持って仕事ができるようにすることだ。ウーマンリブの始まりは性の解放だったが、それは行き過ぎたから、むしろ「お母さん」となる夢と誇りを肯定することだ。
 そして、女性の言う「ガラスの天井」は一種の甘えと見るべきだ。天井はいつも見えている。自分の能力の限界、競争社会の常、ひいては職業モラルを身に着けているかどうか、それらを知ることによって、ガラスの天井なるものにぶつかることはない。
 男女共同参画という名の政策は既に古い。憲法の両性の平等、つまり、男女平等の文言に立ち返って、新たな男女平等社会を構築すべきだ。男女平等社会のイノベーションに、私も臨む。

[2017/11/30]
北欧のバイタリティに学ぶ



   今週、仙石慎太郎東工大大学院准教授の「バイオクラスターの北欧モデル」についてお話を伺う機会を得た。北欧のメディコンバレー(ライフサイエンス産業集積)を検証し、条件が近い関西のメディコンバレーとの比較を論じた。
 北欧メディコンバレーはデンマークと南スウェーデン地域を擁し、デンマークだけでもGDPの5%を占める巨大なビジネスである。コペンハーゲン大学、ルンド大学(スウェーデン)、それにビールで有名なカルスバーグ社を始め400社が中心となって造られたこのバイオクラスターは、MVA(メディコンバレー同盟)と呼ばれる参加企業から成る集団がガバナンスを行っている。
 つまり、民間から、地域からすべてが造られたクラスターであり、仙石先生のご意見では、特にカルスバーグ社の力は大きいとのことである。デンマーク、スウェーデンの両国から5年間の公的資金コミットメントを得たのはひとつの成果だが、基本は、民間・地域の自立運営である。
  関西メディコンバレーも企業が中心で動いている。大阪、京都、神戸の広域にわたるこのクラスターは、歴史的に大阪の薬種中買業、京都の精密加工業、灘の酒造業を活かして発展してきた。経産省の産業クラスター計画、文科省の知的スラスター造成事業の対象でもあるが、地域産業、地域行政が主導で進められてきた。
 これまでの日本全国のクラスターについて見ると、特区方式も含め、地元企業の主導が成否を決めていると思われる。成功している中で、けいはんなも然り、北九州も然りである。逆に言うと、つくばのように国の資金だけを当てにして企業参加の弱い地域は、クラスターが成功することはなかった。
 明治以降、藩閥政府が西日本から出てきたせいもあって近代日本の経済発展は西日本を中心に作られてきた。東日本、特に東北はインフラ整備で大きく遅れた。そのことが、東と西の現在のバイタリティの差をもたらしている。東日本大震災の回復の遅れも、この理由で語られる。
 翻って、欧州では、北にあって小国であるはずの北欧が、社会保障でも、教育でも、環境でも、開発援助でも、そしてメディコンバレーに見るバイオ産業でも、トップを走る。北欧のバイタリティはすごい。冬は午後3時くらいから真っ暗になる重苦しい国なのに、人々の合理性とバイタリティはすごい。日本の東北も、元気を出そう。東北は、人口減少が激しく、インフラ開発、社会開発に貪欲さが足りない。
 東北が日本の北欧となったとき、日本の新たな発展が始まるだろう。
 

[2017/11/22]
バラマキと安保



   一昨日、多部田茂東大教授の海洋利用のお話を聴く機会を得た。世界では、中東紛争やトランプ大統領の出現で地政学回帰の現象が起きているが、海洋国家としての日本は、資源、エネルギーそして食糧のための海洋利用が地政学的政策になるはずだ。日本の国際社会での地位を考える時、最も重要な施策と言っても過言ではない。
 しかし、自然エネルギー開発においても、我が国の方針が明確でなく、脱CO2の欧州、大きな需要を背景に自然エネルギー開発を積極的に仕掛ける中国に大きな後れを取っている。最近のドイツのCOP(環境会議)から帰国した人の話によれば、欧州の記者団は日本を全く相手にしないとのことだ。
 海洋では、一時期騒いだ油流出の問題は減ったものの、富栄養化、乱獲、海洋酸性化、海洋ゴミの問題が深刻化し、陸地と同様、海水温が上昇していて、魚類やサンゴへの影響が報告されている。科学・技術もこれに対応して、大規模沖合養殖、海藻場を使った炭素固定(いわゆるCCS)、メタンハイドレートの採掘、潮流発電を始め再生可能エネルギー開発、海洋深層水利用など、多くの研究開発が行われている。
 問題は、その研究開発が、国策として大々的に行われていないことだ。筆者が議員時代に、メタンハイドレートは、7千億の投資をすれば飛躍的に進められると聞いたが、その後政策の重点になっていない。当時提案された宇宙太陽光発電も。岩手県が敷設候補のリニア・コライダーも7千億から1兆円の投資が必要と言われていたが、いずれも着手されていない。
 他方で、教育無償化は2兆円の予算が毎年組まれることになる。選挙のためのバラマキは優先されるが、国の生き残りに最も重要な国家的ベンチャーを叫ぶ大物政治家がいない。また、トランプ大統領訪日の際に、アメリカの先進兵器を買うことが即決されたが、なぜ自然エネルギー開発や海洋開発は「即決」されないのか。
 バラマキと安保だけでは近視眼の政策だ。この国の中長期的な発展をめざし、自然エネルギー、海洋開発を最優先に投資しなければ、国は亡ぶ。絶対に滅ぶ。

[2017/11/18]
加齢のパラドックス



   先日、三井住友海上福祉財団の今年度財団賞を受賞した松浦常夫実践女子大学教授の受賞記念講演を聴いた。先生は、交通心理学の専門であり、今回は「高齢ドライバーの安全心理学」の著作で受賞した。
 我々の間でも、よく「運転すると人柄が変わる」ドライバーが結構存在するが、運転をするときには性格や属性による心理状態があるらしい。高齢者一般がどんな心理で運転しているかは考えたこともなかったが、かく言う私自身も、高齢化率というときの高齢者には入るわけだ。若いころに比べ、遠出や知らないところに行くことはなくなったが、運転そのものは慎重になったわけでもないし、何も変化を感じていない。
 松浦先生のポイントは、高齢者は、決して高齢を理由に「安全・ゆとり運転(補償運転)」を心がけるわけではないことである。高齢者は、幸せパラドックスと加齢パラドックスを擁していて、「若い頃より幸せ感がある」「運転もベテランだし、老いても大丈夫」という心理にある。
 この心理の壁が危険であると先生は指摘する。今、70歳以上のドライバーの免許更新に認知症テストが課されているが、高齢者のこの加齢パラドックスについて、どう教育していくかは今後の課題である。交通事故の加害者も被害者も高齢者が多いことは言うまでもなく、そうは言っても都内23区で暮らすならいざ知らず、筆者のように茨城県の田舎暮らしでは車なしには生活ができない。
 AIによる自動運転が進み、一人乗りの超小型車が普及し、電気自動車・水素自動車の技術がますます向上する中で、自動車業界は10年も経たぬうちに一変すると言われている。欧州では、ドイツが2030年、イギリス・フランスが2040年までにガソリン車の販売を禁止する。スウェーデンのボルボは2019年ガソリン車の製造を中止する。さらに、中国は、ガソリン車販売禁止の検討を今年開始した。
 いったい日本は何をやっているのだ。いつ「脱ガソリン宣言」をするのだろう。せめて、高齢であれ、どんな条件であれ、同じように運転できる自動運転技術で、他国に先駆け、交通事故ゼロ社会を一番に実現しよう。



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