元衆議院議員(茨城県第6区)[無所属]大泉ひろ子オフィシャルサイト -大泉ひろこの徒然草(つれづれぐさ)-
大泉ひろ子のプロフィール 日々雑感バックナンバー 後援会・党員・サポーター募集
日々雑感
[2017/06/10]
国民国家への道



トランプ大統領は、コミー前FBI長官の議会証言に追い詰められている。メイ英国首相は、賭けに出た総選挙に失敗し、与野党に追い詰められている。そして、安倍首相は、とうとう加計学園問題で、無いと強弁してきた文科省メールの再調査をするまで追い詰められた。
 世界がグローバリゼーションから国民国家へと後戻りする(経済学者水野和夫の言う閉じた帝国)中で、グローバリゼーションを担ってきた大国が国内問題で喘いでいるのが現況だ。日本は、天皇退位の法律が通り、早晩、「平成の仕切り直し」のチャンスが確実にめぐってくる。まさに、国民国家日本が新たな姿を示す時が来た。
 初めから象徴天皇として即位した今上天皇は、ついに昭和天皇を超えた。戦争と復興・経済成長の激しい時代を生きた昭和天皇は、国際社会では、長らく戦争責任を問われていた。今上天皇は、其の後の「失われた30年近く」の難しい時代に、律儀に戦争の遺族に仕え、災害や閉塞感の中に生きる人々を激励した。象徴天皇とは何かを身を以て作り上げたのが今上天皇だ。天皇とは、皇室とは、民への祈りであり、近代化した今上天皇は分かり易い形で示した。
 退位法の所管大臣は菅官房長官。この仕事を終えたのだから、次はご自身の「退位」ではないか。森友学園、加計学園にみる「斡旋政治」の責任を取るべきだ。安倍総理一強を守りたいと思うなら、菅官房長官が「私が皆忖度しました。総理は真っ白です」と幕引きを図るのが一番賢い。
 国民国家の基礎は内需と社会保障だ。そのためには、日本は人口の維持を真剣にやっていかねばならない。合計特殊出生率が同じく低いドイツはここ数年で人口10%にあたる移民を受け入れ、EU経済で独り勝ちしている。米英日が追い詰められている中、一時は移民のやり過ぎで批判を浴びたメルケルは今秋の選挙で4選が確実視されている。
 21世紀がグローバリゼーションから国民国家へと戻るなら、日本はドイツに負けない方法を考えねばならない。フランス、スウェーデンのような徹底した家族政策は、団塊ジュニアが40歳代となった今では遅い。どういう方法をとるのか、新時代の最大の課題とすべきだ。

[2017/06/09]
捨て石



先日、民主党時代仲の良かった議員から連絡があり、民主党政権時代、内閣委員会で公務員改革を手掛けていた私に「今の内閣人事局は自民党の発想だよね」と照会があった。内閣人事局は公務員改革において、それまで各省ごとに行っていた幹部人事を内閣人事局に一括して任せるというもので、縦割り行政の弊害を排除するための「改革」とされた。この内閣人事局が前川喜平前事務次官の首を切ったことになる。
 残念ながら、内閣人事局の案は民主党時代に既にあった。もっと言えば、民主党の案でもなくて、その前の自公政権時代に作られていたものがベースになっている。安倍政権になって公務員改革の法律は公布・施行された。これにより、21世紀に始まった官邸主導の政治が、官僚支配も官邸主導にすることによって、政官ともに各省の権力は失われた。安倍一強の体制はこれによっても整えられた。
 件の議員は、内閣人事局の弊害を質疑しようと意図したと思うが、民主党時代に出来上がっていたものだから「天に唾」だ。安倍総理の答弁には「それは民主党政権時代にあったものじゃないですか」が多い。民進党は、足腰のぐらついていた民主党時代の「業績」と決別せず、曖昧に引きずっているから、安倍政権に叶わぬのだ。
 内閣人事局によって首切られた例は前川さんだけではない。厚労省でも、次官確実と言われた幹部が、政治家に楯突いて首を切られている。このままだと霞が関幹部は茶坊主の集まりになる。否、既に茶坊主だらけだ。本来ならば文科省を挙げて前川前次官を応援し、役人の根性を見せてほしいものだが、政治家の前に委縮して「そんなメールありません」と答える。
 つい先日、旧知の尊敬する方から「あなたは、田舎のおばさんだ。なんでもペラペラしゃべるから政治の世界ではダメなのだ」と言われたばかりだが、現在、私は失うものがないから、正直に言わせてもらいたい。「田舎のおばさん」の真意は、抑圧された本音を仲間内にとどめておけばいいのに、仲間内に受けるからと言って、大衆に向かってしゃべることと定義されよう。折角の御助言を頂いたものの、この欄では、田舎のおばさんを続けるつもりなのだ。
 昨日、親しい友人から、「落選が多く、修羅場をいくつもくぐってきたのはあなたの財産」と慰められたが、政治はプロセスではなく結果だから、私は内心忸怩たる思いだ。話は飛躍してしまうが、私にとっては、落選は不妊治療に似たものがある。「なぜ子供が欲しいのか、他にも幸せはあるのでは?」と同じように、「なぜ政治家になりたいのか、他の方が向いているのでは?」と言われても、行政マンとして積み上げていけば、社会の方向を決める政治にたどり着くことは否めない。
 昨年放映されたNHKの不妊治療がテーマの番組で、結局疲れて治療をどこかで打ち切る話が出た。そのとき、その一人が「私は、捨て石になって生きる」と言った言葉が視聴者の感動を生んだ。闘って、闘って、最後は捨て石になるとは、なかなか言えないものだ。普通なら社会への憎しみ、運命への怨みで一杯になってしまう。田舎のおばさんである私は、「捨て石」という言葉と共に、今後生きていくつもりだ。

[2017/06/06]
都知事失格?



舛添前都知事が辞任してからちょうど一年。蟄居謹慎していた舛添氏が「都知事失格舛添要一」を出版し、以来初めて口を開いた。実は、この本を買うのに少し苦労した。どこにでも売っているのかと思えば、都内のかなり大きな本屋でも置いていなかった。舛添ここまで落ちたり、と印象付けた。
 筆者は、大学紛争時代、舛添氏等と「マックスウェーバー研究会」の自主ゼミで勉強した。眼光鋭い彼は、勉強に集中し、社交的ではなかった。本を読むスピードが速く、フランス語もドイツ語も身に着けた語学の天才でもあった。大学の本屋で、いつも本を漁っていた。
 30年も経ってから、私が山口県副知事の時に、当時テレビの寵児だった舛添さんにシンポジウムに参加してもらった。残念ながら、彼は私を覚えていないと言った。「ほら、Sさんと一緒の研究会で」「ああ、あの美人のSさんね」。美人は覚えていたらしい。
 彼の本によれば、舛添知事はマスコミに引きずりおろされた。背後には石原派・猪瀬派なども蠢いていた。しかし、右から左までこぞってのバッシングは、政治的意味よりも、バッシングのためのバッシングになっていった。私は、彼の言うことはそんなに間違っていないと思う。「贅沢だ」「セコイ」は彼の人格に対する攻撃であって、政治色は薄かった。つまり、彼は嫌われたのだ。
 我が出身の厚労省では、歴代の大臣で一番嫌われ者が長妻氏、次が舛添氏なのだそうだ。二人とも尊大だが、舛添氏の場合は一部の称讃者もいる。「頭がいい。理解が早い」。私自身も、学生時代、一度は志した研究者だったが、彼の姿を見て、とても叶わないと思った。そして役人の道へ変更したのだ。
 だが、私は、勉強秀才は山というほど見てきた。彼らは、人の気持ちとずれていることは確かだ。いつもテーマを追いかけ、よもやま話や人の気持ちに寄り添うことに時間は費やさない。志をどう果たすか、そのことで頭はいっぱいなのだ。
 舛添氏の本は誤解される可能性がある。彼は、東京都を世界の東京にしようと試みたのであって、手段に受け入れられないことがあっても、全体から見れば矮小の議論に過ぎないと書く。だが、人は、仕事で評価するのではなく、人柄で評価する。政治家はそうであってはならないのだが、哀しいかな、民主主義の限界は「自分と同じレベルの人間」を選ぶ基準を設けているところにある。
 このことは、現在、菅官房長官が前川喜平前文科次官に反論するとき、全て人格攻撃であるのと同じだ。菅さんは既に議論には負けている。前川氏も週刊誌によれば勉強秀才だが、文部行政をライフワークに選び、世間を理解しようと行動し、堂々と時の総理と闘うところは、人間味もある偉丈夫だ。
 日本の政治は21世紀になってポピュリズムが中心になった。エリートイズムは最も嫌われる。しかし、すべてその選択でいいか。満身創痍となった舛添氏や弁慶となって「行政という義経」をかばって矢面に立った前川氏の主張も聞き入れるだけの民主主義社会を望む。

[2017/05/31]
ソーラーシェアリング



 先週、城西信用金庫の吉原毅相談役から、現在当金庫が融資しているプロジェクト、ソーラーシェアリング(営農型太陽光発電)についてお話を伺った。
 農水省が設置を認めるソーラーシェアリングは、太陽光パネルを細くし、隙間から太陽光が地面に届くようにして下を農地として活用すると言うものだ。全国で775事例ある(2016年3月)。
 農作物は適度の紫外線がいいのであって、遮光率33%以下で採れる農作物は、大豆、長ネギ、スイカ、ジャガイモ、コメなど、殆どが対象になる。千葉県のメガソーラーシェアリングの落成式には、原発反対の小泉元総理、細川元総理、菅元総理も駆けつけている。
 太陽光発電については、競争激化や環境問題などで一時の流行に比べ低迷しているようにも思えるが、日本は、世界の太陽光パネルの市場を中国に席巻されたのだから、営農技術など別のところで勝っていかねばならない。その意味で、吉原氏は、地方創生の担い手としてのソーラーシェアリングに自信を示した。
 落成式に参加した3元総理共に、原発反対から自然エネルギー派になった。一方で6月6日には、高浜原原発の再稼働が決まっている。政府としては、長年投資し、技術者も多いクリーンエネルギーを捨てがたい。
 吉原氏も原発には反対で、理由は「事故が起きたときの惨禍は人類を破滅させる」。では、もし、技術的に「事故が起きない」まで高められたらどうか。核融合の発電技術で、核ゴミを出さない方法が確立したらどうか。「科学者に訊いたら、それは難しい」と吉原氏。
 自然エネルギーへの投資は、ドイツにおいて顕著だが、経済成長と雇用を生む。しかし、今日まで築き上げてきた原発が技術的に限界があるかどうかの判断は下されていない。だから、再稼働が問題になる。世の中の管理職や政治家は「文系」が圧倒的に多いから、科学的なことは理解できていない。ここは、科学者が世の中を納得させなければ、永遠に水掛け論に終わる。原発を捨て去るのか、ベストエネルギーミックスに原発を残すのか。
 石斧、ナイフ、自動車、飛行機はいずれも多くの人を殺傷してきた。だが、誰も、これらを廃止しようとはしなかった。原発の殺傷力はその比ではないことは確かだが、再稼働の理屈もあるのだから、世の中がもっと理系的に理解する必要がある。「数学ができないから文系に行った」人たちは、科学者に耳を傾けよう。
 
 

[2017/05/30]
性犯罪刑法の改正



 共謀罪の法案が優先されて審議に入れないのが、刑法改正案だ。1907年刑法制定以来110年にわたって改正されなかった性犯罪の厳罰化、非親告罪化を内容とする重要な法案だ。
 被害者は男女両方を対象とし、これまで強姦罪(改正案では強制性交罪)の刑の下限が3年であったのを殺人罪と同じ5年に引き上げ、告訴しなければ立件できない親告罪を改め、告訴無くても立件できるようになった。
 これに加えて、18歳未満に対する監護者(大抵は親)のわいせつ罪、性交罪は、暴行・脅迫を要件とせず、その事実だけで立件される。
 言うまでもなく、時代と共に変化してきた事件の実態を踏まえ、また、被害者側の事情を考慮した改正である。これに合わせるように、最近、有名ジャーナリストに準強姦された女性詩織さんが名乗りを上げ、また、実父から性虐待を受けた山本潤さんが「13歳、私をなくした私」を出版した。
 山本さんの本は、被害者でなければ分からない恐ろしいとも言える数々のトラウマ反応が書かれている。被害者が傷つくのは「なぜ抵抗しなかったか。実父なんてありえない」という一般の反応だ。共感を得られにくい、自力で克服せざるを得ないトラウマを一人抱えて生きていく被害者に、改正法は満点ではないが朗報にはなる。タブーを明るみに出したのだ。
 話は飛躍するが、強姦の被害者も、権力に楯突いた者も、同様に、社会は葬ろうとする傾向がある。「本人がおかしいから、そうなるのだ」。何を言いたいかと言えば、前川文科次官のことだ。日本の社会は、真実の意味で民主主義的ではない。勇気をもって被害体験を名乗り出た人も、勇気をもって真実を語った人も、日本固有の「事なかれ社会」では消されることが多いのだ。その意味でも、この改正刑法は社会のタブーに風穴を開ける可能性が感じられる。
 山本さんのトラウマ描写を最後まで読み切るのは、男性ではいないだろう。しかし、法律となって社会の旧弊を捨て去ることについては、男性であれ、女性であれ、受け入れられる。早く法案審議に入ってほしい。
 

[2017/05/26]
黒は黒でしかない



 前川喜平 前文科省事務次官の会見は、歴史的な瞬間である。官僚が政治家に噛みつく、これはよほど腹をくくらないとできないことであり、行政の劣化を嘆いた前川氏の勇気ある行動に敬意を捧げる。
 世の中の誰も、菅官房長官と松野文科大臣の「そんな文書はなかった」を信じていない。黒いものを白と強弁しているのを誰もが感じている。事務方のトップが、しかも、あの真摯な姿勢で「黒いものは黒です。あるものをなかったとは言えない」と断言したのを、誰もが信ずる。なぜなら、前川氏の意図は「これ以上、行政の判断を歪めては、日本の社会がおかしくなる」という憂国の念から発したものだからだ。
 それを、菅官房長官は「前川氏は、文科省天下りの責任をとるときに、職に恋々とした」という、事実への反論ではなく、人格を攻撃する方法で出た。あたかも「黒いものを白いと言えない奴は、人格的におかしい」と言わんばかりだ。
 私は、現在、霞が関の地盤沈下が進んでいると思う。90年代、デフレで税収が減ってきたころから、霞が関の人事課長の悩みは「優秀な人が入ってこない」。一番手は外資系の会社を目指すようになっていた。入省しても、阪神淡路大震災の忙しさに耐えられず、大量にやめたり、そうでなくても簡単にやめていく人間が多くなった。現在、その集団が管理職に上がってきた。
 前川氏は、79年入省だから、新世代官僚の心の弱さを知り、気骨を持って仕事をするようにと範を垂れたかった気持ちもあろう。霞が関モラルの立て直しをも意味している。勿論、彼は、文科省天下り事件の引責で辞任したのだから、役人モラルを別の意味で低下させたと言う反論もありえよう。事実上、50歳代で退官する官僚の行き場をどうするかが検討されないままだったのは、確かにその責任は負うべきだったであろう。
 問題はこれからだ。権力に楯突いた前川氏は、今後大きな力で逆襲されよう。それも覚悟で発言したと思うが、心配なのは、彼は正論を言っているのだが、彼を助ける者がいないことだ。森友学園も、あれだけの材料がありながら有効に追及できなかった野党。しかも、今回は、官僚嫌いの野党は前川氏を利用しても守ることはすまい。
 与党の中も、安倍一強と言われるように、与党内権力構造は強靭だ。安倍さんの傲慢さに辟易しながらも楯突くことはできない。それならば、現政権は、「斡旋はやってきました。だけれど、もうやりません。ごめんなさい」と兜を脱いで、その上で、続投したらどうか。どうせ野党の詰めも甘い。ならば、開き直って、正直に続投したほうが国民の信頼は得られるぞ。「黒いものは白い」は、子供にも受け入れられない。
 前川氏を守れるのは、あとはマスコミだけだが、トランプ大統領に対峙するアメリカのマスコミと違って、これも弱い。前川氏は「変人」として葬られる可能性がある。それとも、21世紀に始まった官邸主導、政治主導の政治に、バランサーとしての官僚を甦らせるか、固唾を飲んでフォローしていくつもりだ。

[2017/05/18]
田舎のおばさん



 昨日、長年尊敬する某国立大学名誉教授に会った。昨年のつくば市長選落選後、挨拶に行かなければならないと思いつつ、つい目の前の仕事を優先して時期を逸していた。先ずは、挨拶という「世間のルール」を守るべきとお叱りを受け、その上で、いつも辛口の先生から痛いご忠告を頂いた。
 「あなたは田舎のおばさんだね」「言いたいことを正直に言う政治家は成功しない。たとえば、長靴事件で失脚した務台俊介前政務官。本人はまともな人なのに、口を滑らす」「メルケルは人の話は聞くが、自分の考えは言わない。もしかしたら、考えはないのかもしれないが、人に皆喋らせた後で、黙って実行する。だから、政権を長く保っている。決して優秀じゃないが」「あなたも言いたいことを言い過ぎだ。それは、田舎のおばさんなんだよ」。
 都会っ子の私が田舎のおばさんと言われれば、長年の選挙で、田舎を理解するようになったとの褒め言葉にも聞こえるが、無論そういうことではない。状況を読めない「政治音痴」と仰っているのだ。確かに、当該ホームページを始め、演説でも、言いたいことは包み隠さず言ってしまう傾向は自分でも気づいているが、それが私の選挙下手の原因なのだとは、盲点であった。
 新宿に生まれ、渋谷で青春を過ごし、霞が関で仕事をし、赤坂で飲み歩いた都会っ子が、世界の半分である田舎が知りたくて、山口県や茨城県で活動をしてみたが、今は、すっかり元の鞘に収まりつつある。私は沈黙すべき時は沈黙するという術を知らず、田舎のおばさんよろしく、あたりかまわず喋りまくってきたようだ。
 私は、雑踏の中を歩くのが好きだ。人の流れをよけながら、口を結んで黙々と歩く。匿名の社会は誰もお互いに興味を持たない。私は、田舎のおばさんを卒業して、今日も雑踏の中に紛れ込んでいく。

[2017/05/15]
何を目指すのか、政治家



 昨日、ある大きなイベントで国会議員があいさつに立った。聴衆に向かい、笑顔で「皆様のご支援のお蔭で、私はここにあります」と終始、支援を得たことの礼を述べた。彼が政治に出て、何をしたいか、どんな社会を目指すのかは全く言及がなかった。
 昨年の参議院議員選挙でも同じ光景を目にした。ある全国団体の大集会で、候補者は、政治理念に触れることなく、政策に触れることなく、支持団体への感謝の気持を30分も述べて演説を終えた。
 集会は、確かに支援者だけを対象としたもので、支援団体の利益のために働けばよいので、自分のやりたいことを述べる場ではない、そう割り切ってしまえば、それでいいのかもしれない。しかし、一人でも外部の者が入っていれば、人や政策を選ぶ選挙はどこに行ったのだと思わざるを得ない。
 下手すれば、政治家自身が国会議員になりたいだけで、政治理念などはないのだろう。政治的良心があれば、演説の中でその一端を吐露せずにはいられまい。だから、感謝の辞と「皆様の声を国会に届けます」の二つしか言わない人は政治家たるべきでないと思う。
 実現したい理想もない政治家ばかりだから、日本の未来に期待することはできまい。ただし、安倍政権は例外だ。なぜなら、良くも悪くも、実現したいことが端的に表明されているからだ。安倍さん曰く、「軍備を憲法上明らかに持ち、戦前のような一等国にする」「伝統的価値観を大切にし、国民の権利だけではなく義務を明確にする」。これだけ明らかだと、何も考えていない与野党の連中は叶わないわけだ。部分的反対しかできない。それが今の野党の哀しさでもある。
 やりたいことがあるのに次々に阻まれるトランプ政権。やりたいことがあって初めは反発を喰らうが、しばらくすると実現に漕ぎつける安倍政権。この二政権は世界の秩序を維持していくだろうか。多分違う。北朝鮮問題は、外交下手の中国と歴史的に外交上手のロシアの手腕に徐々に委ねられてきた。中国やロシアを超える政治理念を、アメリカも日本も持たねばならぬ時だ。このまま政治貧困ではいられない。焦りを感じる。

[2017/05/06]
学歴で終わる社会



 最近、ひょんなことから、50年近く前に共に学んだ友人の現況を知ることになった。1968年、都立西高から東大に進んだ女子学生の中で、弁護士を開業していたり、国立大学の教員だったりの噂を聞いて、少しほっとした。時代を共有した友人が職業生活を遂げてきたことは誇らしく思う。女性の場合、苗字を変える人が多いので、今日までその存在は埋もれ、忘れていた。
 なぜ誇らしいか。1970年代、厚生省からアメリカに派遣されて見たアメリカの女性の社会進出への勢いは激烈だった。戦後与えられた男女平等の憲法の下で、日本女性にも頑張ってもらいたかったが、いかんせん、当時は親世代の価値観から抜け切れず、また、大量の団塊世代は、高度経済成長と甘い「恋愛流行歌」に乗って、安易な人生の選択に流れがちだった。だから、職業生活を全うした仲間がいたことを誇らしく思うのだ。私は、勉強で勝ち取る狭い世界しか知らないが、芸術やスポーツの世界で、突出した女性を見れば誇らしく思ってきたのも同じ理由だ。
 しかし、そんな私の思いは過去の遺物になりつつある。今の若者は、男女を問わず、小さい時から受験を予告され、受験に合わせた人生を送らされてきた経験を持つ。大学のブランドを勝ち取り、あるいは好むと好まざるとに拘わらず医学部に入学するなど、それをゴールに生きてきたきらいがある。学歴は職業生活の手段であるはずが、学歴がゴールだから、職業生活への憧れや実践技術の習得にはあまり関心を示さない。
 もちろん、それが全てではないにしても、最近会う若者に多いのが、立派な学歴なのに職業的に成功しようと思わない人々だ。その中では、女性は男性より「頑張る」と言われるが、欧米に比べガラスの天井が早く訪れるのも事実だ。我々の世代が自分の誇りのためにがむしゃらにガラスの天井を突き破ろうとした生き方は、「格好悪い」と思われているのだ。学校を出るだけではだめ、社会の下積みから這い上がりつつ、やがて社会に貢献していくべきと考える旧価値観は、若者に一笑に付される。
 思うに、学歴ブランドはもう意味がない。むしろ、大学などに行かなかった別のグループの方が期待をかけられる。それこそ、アップルCEOのステーィブ・ジョブズが、スタンフォード大学卒業式で行った有名な演説のように、「私は役に立たないと思った大学を6か月で辞めた。それが人生の選択で一番良かった」「人に言われた人生をやるのはもったいない、自分のために、飢えよ、馬鹿であり続けろ」。日本がイノベーション競争で勝つことができるのは、これしかないかもしれない。小さい時からの学歴ゴール社会を改める時が来た。
 

[2017/04/30]
メリル・ストリープの正体



 アメリカの大女優メリル・ストリープが1月、ゴールデングローブ賞授賞式で行ったスピーチが話題になった。トランプ大統領を堂々と批判したからである。
 メリルは、ヒラリー・クリントンの応援で、「アメリカ初の女性大統領」を渇望し、奇声も上げたくらい熱のこもった演説をしていた人だ。メリルは、その授賞式で、声が枯れていてごめんなさいと出てきて、トランプに嫌われているのは「ハリウッド、マスコミ、外国人」と言って、先ず人を笑わせた。
 ハリウッドの役者は、外国からやって来て苦労した移民の出が多いと切り出し、トランプの差別主義を批判し、さらに、トランプが障害を持つ記者の真似をしたのを怒った。権力のトップがやることを良かれと思って多くの人が真似るであろうと言った。
 最後は涙声になって終わらしたが、メリルの話が多くの共感を得たことも間違いない。これに対し、トランプ大統領は、「知りもしない記者の真似などするわけがない。メリルは過大評価された女優だ」と切り返した。
 真実は何かをここで問題にしない。メリルという大女優がここまで権力に噛みつくこと自体がすごいことだ。アメリカの民主主義は健全だと言うことだろう。日本なら、「政治色がつくのは嫌だから、表には出さないで」という人が多いのとは大違いであろう。
 メリルは確信の女優である。自らの意志でイェール大学院で演劇を学び、ロバート・デ・ニーロに見出され、1978年「ディアハンター」に起用された。翌79年には「クレーマー・クレーマー」で出て行った妻の役を見事に演じた。ちょうどアメリカがウーマンリブ一辺倒から、家族を大切にするスーパーウーマン時代に変わろうとするときの時宜を得た映画であった。
 メリルは私より1歳年上だが、日本流に言えば学年は一緒の同世代。それまでの、ビビアン・リー、オードリー・ヘプバーン、エリザベス・テイラーなどの美人女優とは異なり、まさにこの時代から映画の中心となった「普通の人」の社会的問題を扱う内容にマッチした存在であった。その普通の人の役回りを自然に演じた。美人ではない、しかし、その中身は、今回のトランプ批判でよく分ったのは、リベラルかつ家族を大切にするウーマンリブを生きてきた人だと言うことだ。女優らしい奔放さはなく、初婚を大事にし、4人の子を育てた。
 メリルは、2011年「マーガレット・サッチャー鉄の女の涙」でサッチャーを演じた。さすがにこれは「普通の女」の人生ではないが、普通の女に堕した認知症のサッチャーを生々しく演じた。メリルは過大評価どころか、役にはまり、渾身の演技をする大女優だ。決して美人ではないが、だからこそなのか、内側は、同世代の私には響くように伝わる「確信を持って生きるウーマンリブ」を感じてならない。
 



前ページTOPページ次ページ






(↑)このページのTOPへ

プロフィール 日々雑感バックナンバー 後援会募集 HOME

(C)2009. HIROKO OOIZUMI. All rights reserved.