第2章 小泉改革、政権交代、そして、二大政党制の死

 もはや戦後ではないと経済白書が宣言したのは1956年、東京タワーや東海道新幹線が完成して迎えた東京オリンピックは1964年、日本は1973年のオイルショックまで高度経済成長で突っ走った。その後も1980年代は、世界経済がスタグフレーションの中で、省エネやアジアへの生産拠点化で勝ち続けた日本。日本はまさに奇跡をやってのけた国だったのだ。地図上は小さい国でも、一人当たり国内総生産の世界一を成し遂げた日本は、アメリカに戦争で「勝った」ベトナムと並んで20世紀の世界の英雄だったのだ。
 ソ連が崩壊し、世界が大きく変わった1991年、日本はバブル経済が崩壊し、その後今日まで続くデフレ不況に見舞われる。ソ連の崩壊で共産主義に対する脅威がなくなったせいもあって、ヨーロッパでは社民系の政権が主流となった。日本でも、1993年、細川護煕率いる日本新党を核として非自民政権が成立。しかし、未熟さゆえの瓦解も早かった。翌年には、自民と社会という本来なら対立すべき政党を中心に奇妙奇天烈な連立政権が登場。そして、2年後には、自民が本格復帰する。即ち、本命橋本龍太郎内閣が1996年に発足。
 デフレ不況が深化する中で、橋本総理は6つの改革を進めた。経済、財政、金融、行政、社会保障、教育。財政改革では、国家予算の編成に「シーリング」を設け、借金を増やさないように仕組んだ。税収の不足は厚生年金特別会計からの超法規的な繰り入れなども行った。相次ぐ金融機関の倒産を受けて、銀行は合併を重ね、メガバンクだけが生き残るようになった。
 行政改革は、2000年の省庁再編へとつなげ、2000年の地方分権推進法では、中央・地方の上下関係を改めるため機関委任事務を廃止した。しかし、結果的には、中央省庁再編は単なる「糊付け」に終わり、省や局の数が減った分、参事官などの名称で独立官が増え、官職の責任範囲がわからない組織になった。
 地方も、のちに民主党政権がいわゆる紐付きでない、一括交付金の制度をつくるまでは、機関委任事務が法定受託事務という名前に代わっただけの有名無実の改革に終わった。安倍政権はこの一括交付金を見直すそうだ。中央集権に戻す、というメッセージに他ならない。中央集権の軍事国家づくりが安倍の主旨だから、むべなるかな、である。しかも、「民主党主導でやったものは全て憎し」ということだが、一括交付金は地方に喜ばれた制度であり、民主のやったことを悉く否定するのは早計だ。
 1997年、橋本内閣は、消費税を3%から5%に引き上げることを断行し、墓穴を掘った。上向きかけた景気は冷水を浴びせられ、その後引き継いだ小渕内閣は、徹底的な財政出動へと政策転換した。小渕の死後の森喜郎内閣も公共事業への投資を続けた。1990年代はリストラや給与減額で人々は疲労してきた。税収は落ちるばかりで、国家予算はシーリングの下、完璧に大蔵省主導になっていった。税収豊かな1970年代なら、大蔵省から各省に「もっと知恵を出して新規政策を考えろ」とはっぱをかけられていたのが、新規査定ゼロに泣く省庁の姿が普通になった。
 私自身も厚生省の課長として、予算の説明に大蔵省の主計局に赴けば、書類を投げつけられたり、臭い息(多忙で不規則な生活のため食事をきちんと摂っていないせい)を吹きかけながら罵倒されたりした。ちなみに、このときの主計局主査のひとり、岸本周平は民主党議員。今回選挙区で勝ったたった二人の一期生の一人だが、彼は例外的に紳士だった。しかし、彼は、野田佳彦を代表選で推し、消費税推進派として活躍した「やはり大蔵の人」だったのは残念だ。
 この状況の中で、高齢社会は深刻さを増し、2000年に介護保険法が成立した。これだけは、日本社会の暗い見通しの中で新たなビジネスを生み出す積極的な制度創設と言える。同時に成立した社会福祉法とともに、それまで社会福祉法人にほぼ独占されていた社会福祉事業に民営化の道筋がつけられた。もちろん、背後にアメリカの要求があった。
 他方で、少子化の進行も甚だしかったが、大きな手が打たれることはないまま放置された。1989年の1.57ショック(合計特殊出生率の低下問題)から検討され始めた少子化対策は、1994年12月のエンゼルプランを皮切りに概ね保育対策を中心に策定された。2000年代に至っても、子供の問題は「保育所待機児童ゼロ」という矮小化された問題に止まり、ゆとり教育の弊害の見直しも遅きに失した。
 2001年、鳴り物入りで登場した小泉純一郎内閣。デフレ不況10年を経て、自民党政権への風当たりが強くなり出したこの時に、旧態然とした自民党を「ぶっ壊す」と言ってのけて、人々の熱い支持を得た。「痛みを伴う改革」とは何かが人々には分かっていなかった。国債発行を30兆円に抑える緊縮財政の方針を出し、2003年からは医療の窓口負担を3割に引き上げた。後には、社会保障費年間2,200億円の削減が始まった。非正規雇用を推進し、企業のコストを下げるのに努めた。
 極め付きは、郵政民営化である。表向きは、公務員を減らす、銀行や保険会社と競争させる、と言うが、アメリカが自国の会社の参入を意図して要求したものであることは今日では常識になっている。しかも、郵政職員は税金ではなく、郵政事業の収益で給料が支払われていたので、公務員を減らす意味がない。
 社会保障の切り捨て、非正規雇用の増加、アメリカ流の市場原理の跋扈などが小泉改革の鎧の下に見えてくると、その後3代にわたる安倍、福田、麻生が務めた総理大臣の統治能力の低下に伴って、人々は自民党の為政者に疑問を持ち始めた。景気も雇用もよくならないばかりか、社会保障への不安も高まり、はけ口が求められるようになった。
 そのはけ口の受け皿となったのが民主党である。長いデフレ不況の中で徐々に与党として力をつけ、与党経験者である小沢自由党と合併してからは、国民の思いを掬うマニフェストづくりや地方に通用する選挙体制づくりも出来上がった。
 忘れてならないのは、政権交代を成し遂げたのは小沢一郎である。小沢さん以前の民主党は、小泉改革と同じことを考えていたのだ。都市型でありアメリカ型であり、小さな政府を主張する政党だったのだ。それが、先に「小泉改革にしてやられた」ため、立つ瀬がなくなった。新たなイデオロギーを以て政権交代を狙ったのは小沢一郎である。小泉の失敗に学び、国民生活第一、即ち、ディマンドサイド・エコノミクスという概念を導入したのである。アメリカの市場原理主義を小泉改革のベースと仕立て、それに対立する概念を見事に打ち出した。
 地方でも、従来自民党の支援を続けてきた茨城県医師会が、原中勝征会長の下に反旗を翻し、医療現場の崩壊を食い止めるため、民主党政権の樹立を支援することとなった。このことは、全国的に波及していった。民主党政権は、医師会という巨大な影響力を持つ「お産婆さん」の力で、国民の期待を背負って生まれてきたのである。
 2009年9月、特別国会で選出された鳩山由紀夫総理大臣が所信表明演説を衆議院本会議場で高らかに行ったとき、308人の民主党議員は誰彼となく立ち上がり、スタンディングオベーションに参加した。鳴り止まぬ拍手は、新たな政治の始まりを告げた。この時の鳩山の演説は、恐らくは小泉就任の時の演説と並んで、議会史上名文として残るであろう。
 しかし。恰も小泉改革の化けの皮が剥がれ、人々を苦しめる市場原理の姿が徐々に露わになったように、新たな民主党政治のメッキはほどなく剥がれていくことになる。政治主導と言いながら統治機構そのものを変えず、三代にわたる総理の職は強面ではないものの、独裁者にあてがわれた。与党は機能せず、官僚とぎくしゃくしながら内閣だけが議論を尽くさぬ政策を発信し続けた。しかも、末期には、与党よりも野党との協力で進めることになった。いい例が消費税の法案である。
 官僚とぎくしゃくしつつも、特別の官僚はむしろ特別席を与えられた。言うまでもない、財務官僚である。政治家を扱い慣れ、情報に長け、弁舌に優れる。凡庸な才で野心ばかりの政治家は手玉にとられる。「消費税引き上げこそ国家を救う道、この道筋をつければ、あなたは歴史で評価される」。財務省のささやきは心地よく耳に入っていった。
 財務官僚は、他省の役人には威張り散らすが、政治家を持ち上げるのは天才的だ。能力に自信のない政治家をくすぐる方法を体得している。財務官僚が優秀なのは、公務員試験の成績がトップだからではない、政治家を手玉に取る方法を体得しているからなのだ。ちなみに、私は、消費税導入を未来永劫反対するのではない。2014年の引き上げならば2013年の通常国会で議論すればよい筈であり、そもそもマニフェストで引き上げないと約束したのだから、民主党政権2期目の課題にすればよかったのだ。
 ところが、まずは菅総理が参議院選挙前に消費税10%への引き上げを口にし、参議院選挙は惨敗。野田総理は、民主党代表就任直後から「消費税の引き上げを不退転の決意で行う」と宣言。あああ、もうだめだ、と思った民主党の議員はどれほどいたか。当時の毎日新聞の社説は、この状況を皮肉って「なんら政策を持たぬ政治家は増税に走る」と断言した。
 民主党瓦解の極め付きは消費税であるが、もう少し時系列でその砂上の楼閣が崩れていく過程を見てみよう。まずは事業仕分け。私も厚生省出身のため、最初の事業仕分けグループに入れられた。しかし、数日して、当時の小沢幹事長が「一年生に仕事をさせてはならない、一年生は選挙区に帰って地盤固めをしろ」という命令が下り、強制的に辞めさせられた。
 しかし、携わったのは短い時間だったが、事業仕分け開始後直ぐに疑問を感じた。政府の事業をよく知らない連中が「コピー代が高すぎる」などの枝葉末節な項目を拾い出して面白おかしく役人を揶揄する発言を聞いて、「こんな素人が、一定の基準や自らの仕分け技術を持たずに何ができるのだろう」と怒りすら覚えた。事業仕分けをする者は、事業を熟知し、少なくとも事業者を凌駕するだけの知識を持たねばなるまい。無資格者が会計監査をするようなものであってはならないはずだ。
 そのことが象徴的に伝えられたのが、蓮舫さんの「(コンピュータは)一番でなく、二番ではいけないのか」という言葉だ。科学技術は一番を目指すというコンセプトを見事に外したコメントだった。私は、事業仕分けに期待しないことにした。案の定、事業仕分けで公約の「16兆8千億円」の無駄遣いは出てこなかった。
  そもそも16兆8千億円が何だったのかも当初定義されていなかったし、事業仕分けがプロの手で行われなかったことも問題だったのである。事業仕分けが財源を出す「打ち出の小槌」だったはずが、役に立たなかった。それが最終的に消費税引き上げにもつながっていく。もちろん、事業仕分けという手法そのものは、政府の事業を一般の人々に明らかにし、国民が取捨選択を考える機会をもたらしたことは評価できる。しかし、民主党政権にとっては、財源が出てこなければ意味はなかった。
 事業仕分けは、国家予算を国民に解剖してみせる優れた手段だが、方法論は未熟だった。民主党が必ずしも成功しなかったことを理由に安倍政権は事業仕分けの廃止をしたが、それは、バラマキ公共事業の実態を隠ぺいするのに好都合な理由を見出したのである。
 「普天間の移転は最低でも県外」と鳩山由紀夫総理大臣は豪語。しかし、この話を裏付けるものは何もなかった。理想であり、希望だった。アメリカや沖縄以外の他県がそっぽを向いた。一体何が起きたのか、民主党内でもわからないうちに、鳩山総理と同じく金の問題を抱える小沢幹事長を道連れにした派手な辞任劇となった。
 鳩山さんは松下政経塾ではないが、民主党に多い「職歴がほとんどない」「大きな組織を動かしたことがない」というカテゴリーに入る。実は、自民党が世襲議員ばかりで、せいぜい父親の秘書を務めたくらいの職歴であり、その結果、官僚に頼らねば何もできなかったことを批判していたが、民主党にも、驚くなかれ、職歴がまともにない人が多い。就中、松下政経塾グループは、学校出てから塾に行き、一般的には県会議員から国会議員に上がってくるルートだから、「部外者、評論家」の人生で国会に到達している。
 職歴や組織人としての経験のない人が権力を持つと、「朕は国家なり」になる。組織に支えられて意見を集約していくべきところを、「朕がこのボタンを押せば、物事は決まる」と思い込んでしまう。哀しいかな、民主党の総理3代とも、「朕は国家」で、やたらにボタンを押したが、回路は繋がっていなかった。回路を繋ぐためには、まずは一番手ごわい利害関係者であるアメリカと協議を進めていなければならなかったはずである。スケープゴートとなる県を打診していなければならなかったはずである。
 残念だ。私は、西松事件で、代表が小沢さんから鳩山さんに代わったとき、「お坊ちゃま君で、大丈夫か」と内心思ったが、あの卓越した所信表明演説で「いけるかも」と思い直した。しかも、鳩山さんはスタンフォードのPhDだ。世界に通用する。戦後の総理大臣でまともに英語ができたのは、吉田茂、宮沢喜一くらいで、鳩山さんは三人目だ。アジア外交とバランスをかけるという意味で、東アジア共同体構想を掲げたのも魅力的だった。
 しかし・・・。こんなに早く躓いて、一体どうするのだ。民主党議員は、ここで政権交代のお祝い気分をすっかり払拭した。このあとは、いばらの道が待っていた。それも、永遠の下り坂という道だ。下り坂の最後は、むろん、崖下の戦場での無残な死である。
 2010年6月、代表選が行われた。私は菅直人に与した。管直人とはつながりが大きい。まず、厚生省時代に厚生大臣と課長という関係で仕事をしている。特に記憶に残っているのは、宮城県と熊本県で行われた「一日厚生省」のイベントに随行して、新幹線の隣の席で議論を交わした。県の会議で菅大臣に答弁メモを渡すと、感心して「官僚がいると便利だ」などと褒められもした。薬害エイズの問題で官僚不信に陥っていた菅さんに褒められた管理職は私だけかもしれない。
 初めての国政選挙が、山口県副知事として出向した山口一区での衆議院選。2003年2月、もともと山口県で育った管直人が公認発表の席に並んだ。その後、山口、茨城のどの選挙にも応援に駆け付けてくれた。管直人夫人伸子さんには、実に2泊3日で応援してもらったこともある。その意味で管直人は恩人だった。
 しかし、菅直人は政権交代後の民主党代表となってから、意外な行動をとり始めた。先ずは、「小沢さんは、静かにしていてもらいたい」という発言。私は、いわゆる小沢派ではないが、政権交代の立役者に対して、あまりにも礼を欠いた発言だと思った。それは多くの人が共有した感情だろう。ただし、アンチ小沢を鮮明にしている、前原率いる凌雲会や野田グループは溜飲を下げたかもしれない。この非礼さが民主党の本質を暴露したものになった。討ち死にした一期生議員に「選挙は自己責任」という切り捨て御免の言葉を投げつけるのもこの本質のなせる業だ。
 続いて、参議院選挙前に突如出てきた「消費税10%に引き上げ」の発言。1994年に細川護煕総理大臣が前の晩に大蔵省と協議して独断した「国民福祉税創設」が政権崩壊につながったことを忘れてしまったのか。あるいは、橋本龍太郎が消費税を3%から5%に引き上げたことによって、参議院選挙の惨敗を招いたことを忘れてしまったのか。一体、なぜ唐突な発言が出てきたのだ。
 今にして思えば、唐突ではなかった。なぜなら、マニフェストは小沢さんの下で作られたのであり、小沢以前の民主党は、前述したように、小泉改革に近い考えで、小さな政府を標榜していた。小沢さんが社民主義に近づけた国民生活が第一、つまりディマンドサイド・エコノミクスの立場はもともと民主党のものではなかった。
 もし、マニフェストを政権与党民主党のベースにしないのならば、場当たり的な政策になってしまう。財政再建が必要なのは事実だが、それを財務省から強調されて、よし、消費税を引き上げるしかないという政策に至るのは、政治の根本哲学に立つ必要性がなかったからだ。民主党は党の綱領が明確にされていないから、そもそも根本哲学がない。だからこそ、政権をとった以上は、国民への約束であるマニフェストに立ち返ることが必須だったのだ。
 菅総理の時からマニフェスト破りは意識的に始まった。小沢以前の民主党に戻そうとしたのだ。小沢色を消すということはマニフェストを尊重しないということに他ならない。それほど小沢が憎かったのか。だが、小沢崩しは、国民崩しになることを考えなかったのか。
 2011年3月11日。土浦で地域活動をしていた私は、揺れが尋常ではない地震が長く続くので、手近の太い木につかまっていた。ようやく収まって歩き出すと、瓦が飛び散り、家々や塀、車の破損を目にした。子供を抱いて外に飛び出した女性がぶるぶると震えていた。信号が壊れていたため、徐行しながら帰途についたが、夕刻になると街の灯りが停電で消えていた。この地震が東日本大震災であり、ただでさえ、政治のベースを失った民主党政権に、新たな課題を突き付けることとなった。
 与党慣れしていないと言えばそれまでの話だが、現場主義で知られた菅総理が原発事故現場に直行して陣頭指揮を執ったのは裏目に出た。原発事故の真実を把握していたのは限られた人であり、真実解明以前に官邸の指示が出されてはかなわない。
 津波の悲惨さは、私自身も5月の連休に宮城県気仙沼市を訪れて目の当りにした。対応が遅いとマスコミや自治体が政府を突き上げた。何か月たってもその論調は変わりなかった。むろん、被災地の廃棄物処理を引き受けたはずの他県の自治体が、直前になると住民の反対でできなくなったというように、政府の側にも口実はあった。しかし、政府の対応に否定的な報道が続き、民主党は「せっかくの活躍のチャンス」をここでも逃した。
 菅直人は退陣を迫られた。野党は、予算の執行に不可欠な赤字国債を発行する法案を人質にとった。「辞めなければ、法案は通さぬ」。野党の激しい詰め寄りに対し、与党議員もまた菅総理の退陣を期すようになった。与党議員は、地元で民主党批判の攻撃の的になっていたのである。赤字国債発行の特例公債法、第2次補正予算、再生可能エネルギー特別措置法の3法が退陣条件となり可決された。
 あろうことか、鳩山辞任から1年。2011年9月、民主党はまたまた代表選を行う。私は、鹿野道彦を選んだ。1992年、私は総務庁に出向して高齢者問題担当参事官をしていた。その時の総務庁長官が当時自民党清和会のプリンスと言われた鹿野道彦であった。鹿野大臣は腰を痛めて座布団を重ねて座し、その状態のまま、私は行政説明をした覚えがある。
 鹿野さんは1994年自民党を離党し、のちに小沢さんと新進党の党首争いもしたが、最終的に民主党に入り、当選10回を重ねていた。政策マンというよりは、「党内融和」を掲げ、混沌とした民主党の建て直しを図ろうとしていた。自民党を離れた後、離合集散、カオスの政治を生き抜いたその体験を以て、党の再建にあたってほしいと考えた。支える議員はベテランで年齢が高く、一期生でも私のような団塊の世代にとっては、価値観を共有するところが大きい。
 鹿野は敗れ、野田と海江田の決選投票になった。私は迷った。消費税を仄めかしていた野田だけは嫌だと思ったが、海江田は小沢に操られてか、発言が二転三転し、およそ信頼かなわぬ演説内容であった。どっちも入れたくないと思いつつ、消極的に野田を選択した。後に後悔してやまぬことになった。「ノーサイドにしようよ、もう」「私は金魚になれない、不格好などじょう」という彼の発言は党内融和を優先し、持論の財政規律第一を封じるかのように思えた。
 2011年9月、民主党3人目の総理大臣に野田佳彦が就任。国民だけではない、当の民主党もうんざりであった。それでもお祝儀支持率は65%に達していた。野田のどじょうに模した絶妙の自己表現が「真面目できちんとやってくれる人」という評価をもたらした。現に真面目さは誰も否定しない。真面目さの向かうところが間違っていただけだ。
 2011年の大震災で一時は中断された社会保障改革は、野田総理の就任以降、消費税との一体改革として、急激に日程が早められた。民主党の政権運営はいつも同じで、政府が先行し、決断を迫られる直前になって党に議論を求めてくるのだ。社会保障と消費税の一体改革も例外ではない。つまり、閣議決定の日程まで決まっていて、形式上与党が議論し、政府の方針を追認しろ、という方法である。
 2011年6月に党でまとめられた社会保障改革の議論は、低調な内容であったが、その年の秋から始まった消費税との一体改革となると俄然、党内の議論は高まった。社会保障の議論では、私を含め社会保障を専門的にやってきた人間の発言が主であったが、年明けて、話が消費税に移るや、喧喧諤諤の議論になった。
 議論の中心を務めたのは、実務をよく知る良識派とマニフェストを守るべきと主張する小沢派である。なぜか消費税推進派は発言をせず、たまに発言をする近藤洋介(山形)や津村啓介(岡山)は反発のヤジでかき消された。小沢派(鳩山派も含む)は、舌鋒鋭い大谷啓(大阪)、中村哲治(参議院)、松崎哲久(埼玉)、川内博史(鹿児島)、初鹿明博(東京)などが中心で、多くは出席すれど語らずじまいであった。そこが小沢派の弱さであり、正しい議論をしているのだが、職歴が不十分で議論を展開できない議員も多く、全体としての力不足になっていた。
 実務家としては、小林興起(東京)、福島伸享(茨城)などが鋭く議論に加わった。私は、厚生省出身の社会保障専門家として実務家の意見を主張した。社会保障と税の一体改革と言いながら、社会保障の部分は、法案としては総合こども園と年金の一部改善の2種類しかなく、医療・介護はかなり精緻な政策内容であったものの法案は間に合わない状況だった。子供政策は相変わらず就学前児童に限定した法案であり、年金の抜本改革を示さない、医療・介護法案が間に合わないとなれば、消費税との一体改革など早すぎる。社会保障の全容を示してから一体改革に進むべきだ。私は、そう唱えた。
 小沢派の主張する「マニフェストの書かれていないことをやるべきでない」は正しい。入り口論だけでシャットアウトすべき消費税法案だったのだ。しかし、なし崩し的に、議論は、低所得者対策や逆進性対策や経済条項(引き上げ直前の経済指標により引き上げを行わないと定めた附則)などに進んでいった。
 最後の極め付きは、前原政調会長出席の下、「議論を尽くす」ことが宣言された。しかし、むろん、それは嘘である。深夜に及んだ議論は、前原の「これで議論を打ち切る」の一言で締めくくられた。その後、前原を押し戻そうと揉み合いはあったが、彼はするりと会場を抜けた。
 どこから見ても不備そのもので、かつ党内の反対を強引に押し切った社会保障と税の一体改革法案は2012年の通常国会に提出された。野田佳彦は前原誠司に党内議論を一任したため、ついぞ最後まで党内会議に姿を現さなかった。
何を恐れたのか。
 2012年7月、衆議院の消費税増税法案に反対票を投じた小沢派は民主党離党を決めた。これを高笑いしたのが他でもない、自民党である。自民党政治と対立軸をつくり、政治は数という自民党と共通の観念を持つ脅威「小沢」が民主党にいなくなれば、あとは、国会解散に持ち込むのは、赤子の手をひねるよりも簡単、と大笑いしたのである。
 もしかしたら、もうひとつの勢力も大笑いしたかもしれない。松下政経塾を中心とする野田派、前原派である。忌み嫌うものが出て行ってくれた、せいせいすると言って笑っただろう。現に、総理側近の一人がそう発言したと報道もされている。
 野田総理は、党内の不穏な空気を察してか、もともと消費税推進だった自民と公明に近づき、3党合意で消費税案を通すことに漕ぎ着けた。しかも、それと引き換えに、わずかばかりの社会保障法である総合こども園法案と年金改善法案を白紙に戻し、医療、介護、年金、子育て支援の法案作りは国民会議に委ねられた。消費税を通すことが優先され、消費税引き上げの唯一の大義である社会保障改革は曖昧にしてしまった。
 小沢派が49名出て行ったことで、二大政党制の死期は迫った。その後も、民主党の次期選挙の惨敗が予想されるようになると、出ていく人は後を絶たなくなった。この外、党の原発政策に反発して出て行く者もあった。総選挙をやる前から民主党はやせ衰え、やがて無謀な選挙に突っ込んでいく。
 「新高山登れ」が真珠湾攻撃開始の暗号だったそうな。11月16日を突如解散日と決めた、党首討論中の野田の言葉は、語気荒く、「ニイタカヤマノボレ」と聞こえた。後に田中真紀子さんが「自爆テロ解散」と名付けたが、まさに、自爆テロに向かう人への「激励の言葉」にも思えた。前線で戦わなくてよい大将は、一兵卒に力強い激励をする。
 選挙の結果は、3年前に民主党議員308人を当選させたのに対し、今回は57人。個々の死体の多さは政党の死を意味する。それも、民主党の長年の夢は政権交代であり、非自民の政権としてリベラル中道の政治を行い、10年かけて地盤を作ろうとしていた。その結果、日本にも二大政党制を作り上げ、政策の選択が可能な民主主義国家としたかったのである。だが、鳩山退陣以降、政権交代の意義は捨て去られ、自民政治をなぞらえた理念無き政治へと堕してしまった。ここに、二大政党制への道は閉ざされた。
 たとえ民主党が少数政党として残っても、二大政党制という政治体制は回復不能になった。政策選択の選挙も回復不能になった。この国は、もともとモノトーンの国であり、かつて「巨人、大鵬、卵焼き」に象徴された、大衆好みは一本化されているのだ。「巨人、大鵬、卵焼き、自民党」が正しいのかもしれない。これに対立する好みは作れないのかもしれない。もっとも、この4つの比喩は多くの若い人にはピンと来ないであろう。今なら「なでしこジャパン、イチロー、ピザ、アパシー(政治的無関心)」というところか。
 二大政党が何だ、せっかくチャンスを作ってやったのに、民主党は自らの身の丈を大きく縮めたではないか。もう知らないよ、もう知らない。日本が危機にあることは、布団を被って知らんふりし、自分が不利な立場に置かれていることも敢えて忘れたふりをし、面倒くさい選択などは素知らぬ顔で通り過ぎるよ。なぜなら、民主党のペテン師が言ったことは信じられないから。
 心から二大政党制の死を悼む。

第3章 死因は分裂病