第3章 死因は分裂病

 社会保障と税の一体改革の党内議論の最後の日、前原政調会長と仙石由人氏がひな壇に並んでいた。何人かの発言の後、私も、これが最後かと思って、語気荒く意見を叩き付けた。「消費税引き上げを強行して党の分裂を招いたら、それこそ自民党の思うつぼ。民主党のやり方は、タネツケだけで終わりのオス的なやり方だ。母親になって落ちこぼれを一人も出さないようにすべきだ」。この表現に皆笑ったが、前原政調会長の反応はなかった。
 分裂は決定的になった。篠原孝議員が再三、分裂を避けるために、「両院議員総会を開いて、多数決で決めよう」と提案したにもかかわらず、多数決となれば否定されるのが明らかとみて、執行部は応じなかった。その結果、消費税増税法案は閣議決定され、2012年6月28日、衆議院を通過する。7月11日、小沢グループは「国民の生活が第一」党を結党し、出て行った。一足先に出た新党「絆」と、その後合流する。
 地域を歩くと、人々は好き嫌いで判断をするのがよくわかる。「私は、小沢が大嫌い。出て行ってよかったんじゃない」「俺は小沢ファン。小沢のいない民主党はだめだ」。その中で、もっとも多かった意見は「内部分裂するような民主党はあきれたね」だった。民主党は、この時点で重傷を負ったのだ。幹部は重篤の「患部」を気づいていないようだった。
 野田総理は庶民的で言葉がわかりやすく、その点では、鳩山、菅よりも支持している人が多いと感じていた。しかし、それはあくまで前任者二人に比べた相対的なもので、消費税を掲げ、党の分裂をもたらした後は、口を極めて批判する人が多くなった。そして、そのことは、野田自身への批判と言うよりも、有権者の眼前に立つ私自身と民主党そのものへの批判に代わっていった。
 政党を保つには、何を譲歩してもよいから分裂だけは避けるべきだった。自民党は政権政党の時間が長いために、権力の求心力で一体性を保ってきた。自民とて一枚岩ではないが、いつかおいしいポストが巡ってくる政権与党であれば、おいそれとは離党しない。その例外は、小沢一郎である。小沢は、1993年、宮沢内閣の不信任案に賛成し、党を割って二大政党制をめざした。これは、まさに政治家として政治理念を実現するための稀な行動であった。
 細川護煕旋風の時も自民党から数々の少数政党が独立し、90年代に離合集散を繰り返す。脆弱な細川政権が、「国民福祉税の創設」なる発言によって、あっという間に終えてしまうと、自民と社会という永遠の対立政党が連立内閣を組み、自民は政権政党に返り咲く。今回は、民主党が国民福祉税ならぬ消費税で負け、自民党に政権奪還を許したのと状況が酷似している。民主党はこんな近い歴史にも学ばなかったのか。
 民主党の死体解剖をすれば、死因は主に「分裂病」であることは明明白白である。身体が切り取られて出血多量で死んだとも言えるし、精神分裂病(今なら統合失調症)で、自分のやっていることの訳が分からなくなって自傷行為に及んだという解釈も可能だ。むしろ後者の方が正解かもしれない。
 民主党は、労組出身組、世襲自民党に入り込めなかった第二志望組(松下政経塾が中心)、政権めざすリベラル志向組など、確かにいくつかの集団から成り立っていた。一期生はそのカラーの意味を十分には理解していなかった。一期生の多くは、硬直した長年の自民政権に代わるリベラル中道もしくは常識派の政治を目指していた。その意味では、民主党の独自性よりも、自民党があったから対立軸が出来た。既得権を切り崩すことが民主党の命題と考えたのが普通の一期生だ。
 戦後を立て直した自民党の一世政治家は識見、経験共に十分な迫力ある人々だった。二世三世に世襲した結果、人物が小さくなり、学力も低く、職業経験も父親の秘書くらいが関の山になり、政治は腐り始めた。特に90年代のデフレ不況には有効な手を打つことができなかった。
 民主党は、そもそも小さな政府を主唱し、構造改革に積極的だった。ところが、彗星のように現れた小泉純一郎が「自民党をぶっ壊す」と叫んで民主党の構造改革をいち早く取り上げその旗手となったのである。民主党は、小泉出現のときには拍手喝采したはずだ。
 拍手喝采したのは、間違いなく世襲自民党に入れない第二志望組の松下政経塾グループであろう。小泉よりも小泉的な人々だ。コミュニケーション能力に長け、選挙戦術はうまく、さわやかな印象である一方、実体的な職業経験が浅く、机上の空論に堕する、いわば評論家集団である。
 そのとき、労組出身組がどういう反応をしていたのかはわからない。しかし、松下政経塾組に比べると、出身母体を振り返らねば決断ができず何事にも対応が鈍くなることは否めない。民主党の中心は労組グループではなかったのである。また、労組出身は参議院に多く、衆議院は限られていた。
 分裂を自ら望んだのは、松下政経塾組だと断定できる。野田さんが党首となり総理となったことによって、小沢さんは切られることになっていたのだ。その前の菅さんは、松下政経塾出身ではないが、小沢さんと代表を争ったときに松下政経塾グループの支援を得た。それに、もしかすると、個人的には小沢さんが嫌いだったのかもしれない。小沢、鳩山、菅の三人が力を合わせた形になっている政権交代のトロイカ体制は、所詮張り子の虎だったわけだ。
 もうひとり、小沢さんを切ったのは岡田克也副総理である。岡田さんは、かつては美男子でありシャープで、そのぶれない姿勢の原理主義も好意的にとられていたが、2005年の郵政民営化選挙で民主党代表として党の惨敗を導いた後は、なぜか人気と勢いを失った。外観もとても老け込み、考えも硬直化したように思う。小沢さんとの関係は私が知る由もないが、松下政経塾組や仙石さんと足並みをそろえたことは結果からすれば明らかだ。
 岡田さんは、かつては、藤井裕久元財務大臣と並んで、党内の良識派だったはずだ。しかし、民主党政権成立後、藤井さんの発言も180度転換して大蔵省OBでしかない消費税推進派に変遷していたし、岡田さんは大臣答弁などでジェントルマンシップを失う場面をよく目撃した。元通産官僚らしく、構造改革派であることは明らかだった。それにしても、あの眉目秀麗の岡田さんが今はフランケンシュタインに酷似するまでになってしまったのは、民主党代表を下りた後、心の変化があったのではないだろうか。
 松下政経塾組に加えて、多くの有力者が小沢切りに参加したのは、民主党の歴史を知らない一期生の私にはわからない。小沢一郎なかりせば、地方重視の選挙戦略やマニフェストを駆使して政権交代に結びつけることはなかったであろう。自由党から来た者に牛耳られることを嫌ったのであろうか。またぞろ、排他的な日本社会の一番嫌な部分だ。
 かく言う私は、小沢派でもないし、代表選で一度も小沢さんに入れたことはない。選挙で応援を受けた小沢ガールズとは一線を画している。それでも、小沢さんのやったことは正しいと思っている。自分の演説に自分で聞き惚れている松下政経塾の連中とは異なり、「目には目を、歯には歯を」の精神で自民党つぶしをやってくれたのが小沢さんではないか。
 そういう人をなぜ切ろうとしたのか。政権一期めで基盤づくりをしなければならない大切な時に、その要となる人を切ろうとはどういうつもりなのだ。確かに、収支報告に不正表記があったらしいが、こんなことは自民党のベテラン議員ならいくらでもやっていて、なんだか無理に捻出したような刑事告発だ。しかも、最終的に無罪になっている。
 民主党は、政権交代劇で主役を務めた小沢一郎が気に入らなくて、小沢派から政権を奪還した菅総理のときから、小沢のつくったマニフェストつぶしを自ら始めたのである。マニフェストにない消費税の引き上げは、以前から構造改革派だった元祖民主党組は当然のこととして着手することにしたのだ。
 「消費税を引き上げ、財政規律を守ることを不退転の決意で行う」と野田は言った。デフレはどうする? 経済成長はどうする? 大震災はどうする? 原発事故はどうする? 新エネルギー政策はどうする? 社会保障制度の立て直しはどうする? 「いやいや、何よりも財政再建が大事。(これができれば、私も総理として歴史に残るだろう)」。
 かくて、経済政策よりも、行政刷新よりも、国会議員定数削減(身を切る改革)よりも、大震災や原発事故よりも消費税導入が第一課題の政治が始まった。消費税引き上げは、不覚にも、政権交代を目指す小沢が封じてしまった「政策」であり、小沢が封じたからこそ憎い、どうしても実現させたい政策になってしまったのである。あわれ、私怨をば政策の動力とする党とあっては、有権者が泣く。
 ただ、若干弁護すれば、総理大臣とて人間、一国の最高権力者の志とは、何のことはない、個人の経験から湧き出てくるものであるから、私怨や個人の感情がその大きなエネルギーになるのは一般的である。たとえば、小泉純一郎も、厚生大臣時代に、我々官僚を目の前にして「郵政官僚は、俺にきちんとレクもしなかった」と言っては涙をこぼした。郵政官僚への私怨があったと思う。
 安倍晋三は、「お祖父さん(岸信介)は不平等条約を是正しようとして安保改定をやったんだぞ、それを知らない国民の馬鹿が・・・俺は絶対にアメリカがつくった憲法を改正してやる」。アメリカ追従の人がアメリカ製憲法を憎む、その矛盾を悟っていない。志を立てたのではなく、志を継いだのならば、木に竹を接ぐようなもので、論理矛盾は避けられない。
 一期生は、当選する前の民主党内部の確執など知る由もない。民主党が党を挙げてマニフェストをつくったと信じ、積極的に評価できる内容だと思っていたのだ。細かいところでは、私は、たとえば、子ども手当のような金銭給付よりも現物給付の方が効果的だと思い、敢えて子ども手当を宣伝はしなかった。しかし、マニフェスト全体としては上出来であった。小沢の功績である。人々の求めているものを掬いあげたのである。
 一期生は、党内人間関係の険悪さを認識しないまま傍観していたが、あれよあれよと思う間に初めから入っていた亀裂が簡単に裂け、分裂を余儀なくされた。今になって、一期生は「いったい我々の存在は何だったのか」と問うているが、答えは「お前らは、ヒトラーユーゲントか、戦前の日本の軍国少年と変わりない、操られ集団だったのだ」。ああ、屍よ、もう日の目を見ることはなさそうだ。
 死体の解剖医いわく、「精神分裂病、いや、今は統合失調症と言いますが、ま、統合かなわぬ病気でしたね、民主党さんは。安らかに眠りたまえ」。

第4章 マニフェスト選挙の死