第1章 累々の屍

 2012年12月16日、午後8時の開票と同時に相手候補の当確がニュースで知らされた。3年4か月前に多くの人が熱気と共に私の当確を待った風景とは一変した。私は、人影もまばらな選挙事務所で、「応援してくださった皆様に申し訳ありません」と乾いた挨拶だけをして、その場を立ち去った。
 「ああ、また落選か」。二度の落選後前回初めて当選した私は、再び「万年浪人」の自分の姿に還った。前回は、長年当たり前のように当選し続けていた二世議員を民主党の追い風で圧倒的にやぶった私が、今回は10万票以上も減らし、みじめすぎるほどの凋落ぶりを感じ取った。
 今回の選挙は、一義的には、民主党への「懲罰」であったが、私自身の選挙にも大いに非があった。選挙前2年間は徹底的な地域活動をし、お会いした有権者の数を増やし、一定の自信はつけていたはずだった。逆風でも、地域回りで得た人的財産は私を救ってくれると甘い期待をしていた。
 しかし、そもそも私は、事務所マネジメントが下手だ。元来リベラルで、人を信頼する管理職として公務員の仕事を全うした私は、過去4回の選挙はいずれも、自分のそのスタイルを通した。しかし、選挙事務所は少人数の零細事務所で、地域の持つ非合理性や独特の人間関係が私の合理性を阻んだ。事務所の力を出す方便を私は知らなかった。
 平時はこなせても、修羅場は、それぞれのポジションが指示仰ぐことなく動けなければ、仕事にはならない。今回は、修羅場での機能が完全に失われた選挙になった。掲示板のポスターが何日たっても貼られていない、出陣式の前列は全部空席、演説会の人集めに失敗する等々、選挙対策機能喪失が目で確かめられるほどだった。
 勝てば官軍、負ければ賊軍。選挙後の情報分析会議では、これらの初歩ミスへの怒りと批判が関係者の間で渦巻いたが、賊軍を率いたのは誰か、誰が誰に怒ればいいのか、結局は、選挙体制の非は、候補者である私にある。私が不甲斐ないということに尽きる。幸いにして?負け方が大きいために、混乱を招いた真犯人探しの意味はなかった。
 遊説隊は、街角の掲示板に私のポスターだけが張られていないのを見ては怒り、意気消沈した。支援者が街宣車に近づいてきて、「大泉はやる気があるのか」「今回は立候補しないのか」とまで言われた。
 毎日の演説会は、最初の日が出席者13人と、国政選挙では考えられない少人数だったが、真剣に取り組みだしてからは、徐々に人が増え、最後の方は演説の油も乗ってきた。息子の応援演説も共感を呼んだ。しかし、なぜか前回のような昂揚感や熱気は全く感じられなかった。もう負けることが前提のイベントになっていた。
 私は、つくば国際戦略総合特区を駆使した科学産業の誘致をデフレ脱却につなげることと、消費税7千億円分を子供の教育・保育の負担軽減に使うことを一貫して訴えた。マスコミが作り上げた争点である原発、TPP、消費税は時に言及したものの、選挙戦ではあまり問われることはなかった。それよりも、多くの有権者は、演説の中味にかかわらず「民主党にやめてもらう」ことをすでに心に決めていたのである。マスコミはそれを争点ボケの選挙と評した。
 私は負けた。その負け方は驚愕といってもいいくらいのものだ。自民の二世議員が9万1千、地元の無所属二世議員が4万5千、現職だった私は三番手で3万9千、しかも、新参の維新党候補にほとんど追い上げられていた。私は前回の得票数から、なんと10万票以上も票を減らしていた。普通なら、こんなに減らすのは、汚職か醜聞でもなければありえないことだ。
 その晩は何も考えずに寝ることにした。選挙翌日の新聞で、同僚議員がバタバタと倒れた事実を知る。「惨敗したのは、私だけではなかった」という一種の免罪意識も覚えたが、前線の兵士をこれだけ戦死させた無謀な戦争への怒りがこみ上げた。民主党幹部がテレビの前で言い放った言葉は、「選挙は自己責任だ(党のせいにするな)」「これで民主党は筋肉質になった(負けたやつらは無駄な脂肪だったにすぎない)」。
 累々の屍が転がっているのが私には見えた。あの顔もあの顔も国会から姿を消すはめになった。考えれば、3年前に自民党が同じ目に遭ったのだから、「お返し」を受けた? 否、である。3年前の自民党でもこんな負け方はしていない。自民党は世襲が多いから地盤は固く、「お灸を据えられて負けた」としても、惜敗率が半分を割るような負け方はしていない。しかし、我らが負けは、新たな政治集団の参戦が多かったために票が分散したとはいえ、第1ラウンドでアッパーカットを喰らって転倒してしまったようなものだ。
 約二百の死骸に対し、堂々生還を遂げた兵もいる。一兵卒ではないが、篠原孝さん(長野)と階猛さん(岩手)の生還は嬉しかった。二人とも消費税に反対し、賛成票を入れなかった。論理が明快で、学識、プロフェッショナリズム、行動力とも備えた、民主党では数少ない人材だ。死骸の中で、首藤信彦さん(神奈川)を発見した時は残念無念だった。消費税、TPP、原発の反対論を展開し、世界から情報を先取りしている優秀な人だ。
 転がっている屍は、何と叫んで死んでいったろうか。かつて戦場で死んだ兵士の多くは「お母さん」と言って息絶えたそうだ。「天皇陛下万歳」は全くない。だとすれば、「民主党万歳」と言って死んだわけではあるまい。「何でこんなことになったのだ、神様、仏様、お母さん、嫁さん、我が子よ・・・」。
 多くの兵士は赤紙が来て理不尽な戦いに狩り出されたように、民主党員は、「絶対に負ける」と言われた理不尽な選挙に臨むしかなかった。離党して別の政党に移った者もいるが、それも芳しい成績を挙げることはできなかった。理念から言うと政権交代を成し遂げた民主党の功労者である小沢派「生活第一党」も民主党の瓦解を助長した存在として惨敗に終わった。
 討ちてし止まん、の戦争に突撃した大日本帝国陸軍は、「松下政経塾」軍である。徴兵された一兵卒は、宣戦布告が突然やってきて、徒手空拳のまま皆殺しにされた。軍率いる野田佳彦は、「近いうちに解散する」という他党との約束を優先し、自国軍を犠牲にした。
 かくして倒れた屍は何を語るのか。黙って朽ちていくのか、殊勝にも、こんな民主でも息を吹き返してやり直すと言うのか。それとも、怒髪天を突き、次の命はアンチ民主の道を選択するのか。私は、早々と発言していく。腹の虫が収まらないからだ。屍が発言するというのも、論理矛盾なので、民主党の死体解剖ということにしたい。累々の死体を解剖して病理を言い当て、日本が死に絶えないように、警告の検死書としたい。
 屍となる前の私をいささか語っておきたい。私は、1972年に厚生省に入省し、医療、福祉、年金、子育て政策に勤しむうちに、いつしか政治家への転向を考え始めた。政治家となるために、厚生省の枠を越え、国連機関への出向、県副知事への出向と自ら多様な経験を選び取ってきたつもりだ。しかし、選挙という大きな壁はいつも無残に私の思いを打ち砕いた。山口県副知事を退任し出向地山口県で戦った2回の国政選挙に敗れ、居住地茨城県で出直して、前回は勝ったものの、再び敗退。1勝3敗とは、誰が見ても気の毒な経歴になった。
 一度はマニフェスト選挙で政策論争の選挙が実現できたにも拘らず、民主党のマニフェスト破りが、「地盤、看板、鞄」選挙に先祖帰りさせた。そうなると、将来の戦いの目途は再び暗い。現に、今回は、地元の無所属候補の参戦で、私の陣営は根こそぎ崩れた。嘘っぽい政策論争より地元の仇花が選ばれる。
 戦い済んで、翌日からあいさつ回りや片づけを淡々と始めた。私の政治活動も「もはやこれまでか」と心では覚悟していた。しかし、時間をかけて結論を出そうと決めた。なぜなら、私は、いつも短絡で、自らを窮地に追い込む癖があるからである。
 改めて知ったのは、あれだけ地域活動はしたが、私自身に入った票は少なく、地元出身でなければ、いつでも、足元は崩れるということだ。国会議員は学歴、職歴を十分に持ち、討論会と演説で勝負すべきと考えてきたが、そんなものは、自己満足でしかないということだ。それが日本。良くも悪くもそれが日本。
 若いときは、そんな日本が嫌いで、きちんと自分の言葉で答弁できない世襲政治家の大臣を横で見ながら、こんなつまらぬ日本でないところで生きたい、と何度も思った。実際に、日本を飛び出すこと3回。アメリカ2年、インド3年、オーストラリア1年。しかし、やはり、その度ごとに日本に帰ってきた。なぜなら、その日本を、生活する喜びがあって話の通じる国にしたいと思い、研鑽を積んできたのだから。一番恵まれた時期を生きた団塊の世代が次の世代に良き日本を用意して死ぬべきと考えたのだから。
 その思いが変わらなければ、私は政治から引退はできないはずだ。選挙直後のストレスのため働かなくなった頭で、これから自分はどこへ行くのかを見出そうと、これまで辿ってきた道を反芻し始めた。選挙に敗れた我が屍は、死んだふりしていただけだ。私は、まだ生きたい。なぜなら、健康で、世界を渡り歩き、行政知識を携えた身と自負し、そして、何よりも志半ばだから。

第2章 小泉改革、政権交代、そして、二大政党制の死